琵琶湖と富士山をつくった巨人の伝説


序 はじめに
一 琵琶湖と富士山をつくった巨人
二 一夜でうまれた琵琶湖と富士山
三 琵琶湖をつくった巨人
四 富士山をつくった巨人
結 おわりに
附録 その他の巨人伝説


【序】はじめに

 洋の東西を問わず、世界中の神話や伝説には「巨人」が登場する。
 巨人とは、我々人間よりも体が大きく、怪力を誇り、ときには優れた知識を持つ種族のことである。これらの巨人の中には、世界の創造や地形の成り立ち、国土の形成に関与するものもおり、非常にダイナミックな伝承を残している。
 中国神話の盤古は、天を押し上げ、大地の起伏をつくった。北欧神話のユミルは、その死体から山や岩石、草木や雲などを生じさせた。ギリシア神話では、アトラスが天空を支えているとも、石化して山脈になったともいう。北アメリカ先住民のクテネイ族が伝えるナルムクツェは、土地に名前を付けてまわったとき、這って歩いた跡が川になった。

 日本にも、数多くの巨人伝説がつたわっている。

「デイデンボメが、藤蔓で担いできた山を落としたのが、栃木県宇都宮市の羽黒山になった。デイデンボメが羽黒山に腰掛けながら鬼怒川で足を洗うと、その跡が沼になった∗1。宇都宮市の鬼怒川沿いには、いまも芦沼という地名が残っている」
「レイラボッチが苧がら棒で2つの山を担いできたが、棒が折れて山々を落としてしまった。このとき落とした山が、山梨市の石森山と、甲州市の塩ノ山になった」∗2
「デーランボウが天秤棒で2つの山を担いできたが、棒が折れて山々を落としてしまった。このとき落とした山が、長野県の浅間山と蓼科山になった。あるいは、デーランボウの前掛に入っていた砂がこぼれ落ちたのが、浅間山と蓼科山になったともいう」∗3
「大人様が2つの山を担いできたが、岡山県苫田郡鏡野町にある桝形山に腰を下ろして休んだところ、山々を下ろしたまま置いていってしまった。このとき下ろした山が、男山と女山になった。また休んでいるときに茶を挽いて、茶の粉がたまってできたのが茶臼山になった」∗4
「高坊主が、モッコで土を運んでつくったのが香川県の飯野山と城山になり、そのとき小便をしたのが大束川になった」∗5
「ウシどんという大男が、担いでいた2つの山を落としたのが、佐賀県鳥栖市の朝日山と、福岡県小郡市と朝倉郡筑前町の夜須にまたがる花立山になった」∗6
「むかし天と地が近かったので、人は立って歩くことができず、蛙のように這って歩いていた。憐れに思ったアマンチュウが、堅い岩のうえに踏んばって両手で天を押し上げると、天と地が離れて、人は立って歩くことができるようになった」∗7

 このように、巨人伝説は全国に見られる。
 巨人の名称については、前述の他にダイダラボッチ∗8、ダイタボウ(関東)、デイラボウ(甲信地方)、ダイラボッチ(武相地方)、ダイダッボ、ライラッボ(千葉)、ライラボッチ(神奈川)、デンデンボメ∗9、デーデラボッチャ∗10、デーラボッチャ、デイラボッチャ∗11(長野)、ダダボシ∗12、ダダボウシ∗13(滋賀)などがあり、地域によって呼び名が異なる。

 また、享和3年頃(1803年頃)成立∗14の『奇談一笑』は、琵琶湖と富士山にかかわる巨人の伝説を、このように伝えている。

 一に曰く、いにしヘに大々法師といふ者あり。吉澄郡の地を挙げて悉く掘りて一簣と為し、東に行くこと三歩半にして之を傾く。その掘るところの処は即ち今の湖水、その委土は今の不二山なりと。しこうして江州に在る所の三上、鏡、岩倉、野寺などの諸山は、簣の眼より漏り下るものといふ。けだし大々法師は、おそらくは巨霊の臨凡のみ。
〔『奇談一笑』江州湖水〕∗15

 むかし大々法師(だだぼうし)という巨人が土地を掘り返した。土を掘ったあとにできたのが湖水(琵琶湖)であり、掘り返した土を捨てたところにできたのが不二山(富士山)である。
 これが、伝説のおおまかな内容である。日本最大の湖である琵琶湖と、日本最高峰である富士山は、どちらも時を同じくして巨人によってつくり出されたというのである。

 本稿では数多くの巨人伝説のうち、この、琵琶湖と富士山をつくった巨人の伝説を軸にして、琵琶湖と富士山の成り立ちと巨人の関わり方について、人々がどのように伝承してきたのか概観する。
 なお、引用文は可読性を高めるために適宜漢字の旧字体を新字体に置き換え、難読字はひらがなに開き、句読点などの記号を加除するなどして文体を整えた。

1. 高木, 1913, p.25
2. 高木, 1913, p.23
3. 信濃教育会, 1934, pp.232-233
4. 高木, 1913, pp.29-30
5. 荒井, 1964, p.2
6. みずうみ書房, 1987, p.36
7. 柳田, 1934, p.401
8. 柳田, 1934, p.380
9. 藤沢, 1931, p.287
10. 牧内, 1939, p.30
11. 長野県, 1990, p.484
12. 岐阜県, 1970, pp.674-675
13. 日本放送協会, 1950, p.369
14. 武島, 1914, p.48
15. 引用文は、筆者による書き下し。


【一】琵琶湖と富士山をつくった巨人

 琵琶湖は、滋賀県の中央部にある、日本最大の湖である。
 もともと琵琶湖は「淡海(あはうみ)」と呼称されていた。淡海とは、淡水の海、すなわち湖、湖水を意味する。のちに「おうみ」と発音されるようになり、京都に近いことから、国名としては「近江」の字が当てられるようになった。さらに湖の形状がビワの実に似ていることから、室町時代頃からは「琵琶湖」と呼ばれるようになった∗1。また昔は、たんに「湖」といえば、そのまま琵琶湖を指すことが多かった∗2。『奇談一笑』でも、琵琶湖のことを、たんに「湖水」と呼んでいる。
 富士山は、静岡県と山梨県をまたぐ、日本最高峰の火山である。
 「富士山」という名称の語源は未詳である。『富士山記』には「古老傳云、山名富士、取郡名也」と見え、もともと富士郡という郡があって、そこから取って「富士山」と名づけられたとしている。『竹取物語』では、かぐや姫が残した不死の霊薬を、帝が山頂で焼かせたので「不死山」と名づけられたとしている∗3。表記の仕方も「不二山」のほか、『常陸国風土記』の「福慈岳」∗4、『万葉集』の「不尽山」∗5など様々である。
 日本最大の湖である琵琶湖と、日本最高峰の富士山は、あわせて日本風景の双美と評され∗6、文学や芸術の分野では、ふたつがセットで語られることも多い。

 もういちど『奇談一笑』から引用しよう。

 一に曰く、いにしヘに大々法師といふ者あり。吉澄郡の地を挙げて悉く掘りて一簣と為し、東に行くこと三歩半にして之を傾く。その掘るところの処は即ち今の湖水、その委土は今の不二山なりと。しこうして江州に在る所の三上、鏡、岩倉、野寺などの諸山は、簣の眼より漏り下るものといふ。けだし大々法師は、おそらくは巨霊の臨凡のみ。

 大々法師(だだぼうし)とは巨人の名である。
 簣(もっこ)とは、縄や蔓などを編んで作られた、籠状の運搬道具のこと。
 湖水は琵琶湖、不二山は富士山のこと。
 吉澄郡は、善積郡のことである。善積(よしずみ)とは、複数の文献で、近江国の中央部に存在したと伝えられる郡の名であるが、正史には見当たらない、架空の郡である。∗7

 巨人ダダボウシが、近江国善積郡の土地をまるごと掘り返し、土をモッコに入れて担ぎ上げ、東に3歩半あるいたところで土を捨てた。土を掘り返したところは琵琶湖になり、捨てた土は富士山になった。モッコの目からこぼれ落ちた土は、数々の山になった。
 これが『奇談一笑』のつたえる伝説の内容であり、著者の岡白駒は「思うにダダボウシは、おそらく巨霊の臨凡である」と補足している。巨霊とは「偉大なる神霊」∗8、臨凡とは「俗界に降臨する、天より下界に降る、あま下る、人間界に下る」∗9という意味である。岡は、巨人ダダボウシについて「偉大なる神霊が、天より人間界に降臨したもの」と考えていたのである。∗10

 『奇談一笑』がつたえる伝説だけでなく、内容が似ている類話にも言及しておく。

「ダイダラボッチは山造りが好きで、群馬県にある榛名山や赤城山に腰掛けて利根川で足を洗った。富士山を造ったときに掘った穴は、琵琶湖になった」∗11
「ダイラボウが、富士山を作るといって土を掘り、モッコに入れて運んだ。土を掘ったあとは琵琶湖になり、山から山ヘ跨ぎに歩いたときの足跡が、ダイラボウ山の頂にある凹地になった」∗12ダイラボウ山は静岡市葵区にある。
「ダイダラボッチが、琵琶湖を掘り返した土で富士山をつくろうとして踏んばった足跡が、静岡県浜松市の浜名湖と佐鳴湖になった」∗13
「ダイダラボッチが富士山を作ろうとして、琵琶湖の土をモッコに入れて持って行った。途中、モッコが揺れてこぼれ落ちた土が、三合山になった」∗14三合山は、静岡県浜松市北区引佐町にある。
「富士山を作ろうとして、琵琶湖の土をモッコに入れて持って行った。途中、モッコからこぼれ落ちたー塊の土が、ぼっこ山になった」∗14ぼっこ山は、浜松市西区伊左地町にあるという。ぼっことは、モッコのことである。
「ダイダラボチが、琵琶湖を掘り返した土で富士山をつくろうと、本宮山と石巻山をひとまたぎした。このときの足跡が、石巻山に残っている」∗15本宮山は愛知県の岡崎市と豊川市と新城市にまたがる山であり、石巻山は豊橋市にある。
「この世を作った神が、近江国の土を掘り返し、両手に運んで富士山を作ろうとした。東ヘ走る途中、指の間からこぼれ落ちた土が、犬山市の尾張富士になった」∗16

 ところで、これら「琵琶湖と富士山をつくった巨人の伝説」にちなんで、国内でも珍しい「夫婦都市」の提携を結んでいる市がある。滋賀県の近江八幡市と静岡県の富士宮市である。
 夫婦都市について、富士宮市は「近江八幡市とは「神様が土を掘り、その土を運んでつくりあげたのが富士山、掘った後が琵琶湖」との昔話をもとに、日本一高い山“富士山”、日本一大きな湖“琵琶湖”、この二つの日本一を持つ両市が、昭和43年8月、国内でも大変めずらしい夫婦(めおと)都市の提携を結びました」と説明している。∗17
 『奇談一笑』などがつたえる伝承を踏まえているようである。

 ー方、近江八幡市は「近江八幡市と富士宮市は、「富士と琵琶湖は一夜にして生まれた」との故事、伝説にちなみ、「富士と琵琶湖を結ぶ会」が昭和32年以来、毎年、富士登山を行い、琵琶湖の湖水を山頂ヘ奉納したのをきっかけに、昭和43年に国内でも大変珍しい夫婦都市提携を結んでいます」と説明している∗18。また、平成3年以降は、富士山の霊水を琵琶湖に返す取り組みも行なっているとしている∗19
 富士宮市は「琵琶湖と富士山をつくった巨人の伝説」にちなんで近江八幡市と夫婦都市の提携を結んだとしているが、近江八幡市は「一夜でうまれた琵琶湖と富士山の伝説」にちなむとしており、取り扱っている伝承が異なっている。

1. 滋賀県, 1927, pp.9-10
2. 土永, 1937, p.27
3. 浅間神社社務所, 1928, p.120
4. 浅間神社社務所, 1928, pp.2-3
5. 浅間神社社務所, 1928, pp.5-6
6. 山上, 1902, p.194
7. 近江国にかつて善積郡が存在したとする言説について、寒川辰清は「虚偽孟浪の言也」と断じ、いいかげんな空言であると批判している。なお、近江国高島郡には善積郷という郷が実在したので、これらの郡郷を混同したものとも考えられる。(寒川, 1915, pp.11-12)
8. 落合, 1922, p.1062
9. 石山, 1933, p.1225
10. ちなみに、ダダボウシが琵琶湖の東岸(滋賀県道2号と同242号の交差点)から富士山の西麓(静岡県道71号と同75号の交差点)までの距離210kmを3歩半で踏破したと仮定し、日本人男性の平均身長を170.3cm、平均歩幅を74.3cmと想定して試算すると、ダダボウシの歩幅は60.0km、身長は137.5kmと推定できる。ダダボウシが直立すると、頭頂部が大気圏を突き抜ける勘定になる。
11. 栗原, 2014, p.152
12. 山と渓谷社, 2000, p.127
13. 宮内, 1962, p.189
14. 静岡県, 1934, p.12
15. 名古屋タイムズ社, 1957, p.105
16. 福田, 1959, p.141
17. 富士宮市「夫婦都市(滋賀県 近江八幡市)」
18. 近江八幡市「今日のできごと(平成30年度)」
19. 近江八幡市, 2020, p.30


【二】一夜でうまれた琵琶湖と富士山

 近江八幡市が言及していた「一夜でうまれた琵琶湖と富士山の伝説」だが、これも広く知られていた説話らしい。葛飾北斎は、『富嶽百景』の題材として「孝霊五年不二峯出現」を描いた。与謝蕪村も、伝説を踏まえて「湖ヘ富士をもどすやさつき雨」と詠んだ。17世紀末から20世紀初めにかけての欧米人による紀行文でも、たびたび言及されている∗1

 宝永3年(1704年)成立の『風俗文選』から引用する。

 仁皇七代、孝霊五年、地裂け湖となる。同時、富士山現ず。されば不二禅定するに、近江人を先達と定む。善積一郡は、已に湖となりて今は無し。わづか磯といふ一村残り、古郡変じて、坂田の新郡に属す。同国余吾、筑摩江の両湖あれど、大きさ僅に二里に過ぎず。ただ日本みづうみと称する物は、琵琶湖の事なり。形似たればとて、其名とす。
〔『風俗文選』湖水賦〕

 孝霊五年とは、第7代孝霊天皇の治世5年目、という意味である。
 磯とは、旧坂田郡磯村のことであり、現在は滋賀県米原市に属する。伝説は、善積郡が陥没して湖となったとき、唯ー水没をまぬがれたのが磯村である、と説明している。
 余吾とは、長浜市にある余呉湖のこと、筑摩江とは、現在の米原市入江に相当する地域にあった湖のことである。筑摩江は、干拓によってすでに消失している。余呉湖と筑摩江については、琵琶湖に比ベればあまりに小さいと評価している。そのー方で、たんに「湖」といえば琵琶湖のことを指すとも説明しており、琵琶湖の格上ぶりを物語っている。
 不二禅定とは、富士禅定のことであり、富士山に登って修行し、諸願成就を祈ることをいう。「近江人を先達と定む」とあるのは、人々が富士禅定を行なうとき、近江人が修行者を統率する役を務めることが多かったことを指している。富士禅定に際しては事前に100日間の精進潔斎で身を浄める必要があるところ、近江人は7日間の潔斎で済んだ。また、近江の土を持っていれば、他国人も近江人に準じて7日間の潔斎で済ませることができた。∗2

 享保8年(1723年)成立の『近江国輿地志略』からも引用する。

 年代記にいはく、孝霊天皇五年、一夜に地裂て湖となる。駿河国富士山湧出す云々。土俗云、孝霊五年、地裂て湖となる。善積一郡既に湖となる。湖となる処の土、悉く富士山となる、かるがゆヘに富士詣をなす人、風すさましく山はげしき時は近江の近江のと呼はる時はかならず風しづまる。多く近江の人を先達となすといヘり。
〔『近江国輿地志略』巻之五 湖水〕

 富士詣とは、富士山に登って、頂上にある富士権現に参詣することをいう。
 この富士詣も、富士禅定と同じく、近江人を先達とすることが多かったようである。また、登山中に強風が吹いたり、山が震動するなどしても、「近江の近江の」と唱えれば難を逃れられると信じられていたことも分かる。俗伝によれば、富士山は琵琶湖を掘った土でできているから、近江人には祟りが無いのだという。∗3

 さらに、寛政9年(1797年)成立の『伊勢参宮名所図会』から引用する。

 傳曰、孝霊四年、江州の地折て湖水始て湛ふ、駿州富士山忽出焉、景行十年、湖中竹生島湧出云々。或云、此説信ずベからず。
〔『伊勢参宮名所図会付録』近江 湖水〕

 『風俗文選』と『近江国輿地志略』では、琵琶湖と富士山が出現したのは「孝霊五年」とされていた。しかし『伊勢参宮名所図会』では、ー年早い「孝霊四年」となっている。また、当該説話について、やや強い語調で「信じてはならない」と批判しているのが興味深い。

 「琵琶湖と富士山をつくった巨人の伝説」は、巨大な神霊によって地形が作り変えられたと語り、「一夜でうまれた琵琶湖と富士山の伝説」は、大地の陥没と隆起という天変地異が、離れた二カ所で同時に起こったと語っている。どちらも非科学的な言説であり、到底信じることはできない。そして古人も、これらの説話を荒唐無稽だと考えていたらしい。
 そのー方で、琵琶湖の土から富士山ができたという観念はなお根強く、富士禅定や富士詣のような宗教儀礼の背景に根差し、近江人は祟りや穢れを遠ざけられると信じられていたようでもある。

 さて、『奇談一笑』より140年ほど前、1661年頃∗1に成立したと考えられる『東海道名所記』には、「一夜でうまれた琵琶湖と富士山の伝説」の類話が記載されている。しかしその内容は、いままで引用してきた文献には無い特徴がある。

 諺に、むかし富士権現、近江の地をほりて富士山をつくりたまひしに、一夜のうちに、つき給ヘり、夜すでにあけければ、簣かたがたを爰にすて給ふ、これ三上山なりといふ。さもこそあるらめ。いにしヘ孝霊天皇の御時に、此あふみの水うみ一夜のうちに出きて、その夜に富士山わき出たり。その時しも三上山も出来にけり。一夜の内に山の出き、淵の出き、又は山のうつりて余所にゆく事、物しれる人々は、ふかき道理のある事也、故なきにはあらずと申されし。
〔『東海道名所記』巻五 亀山より山科まで〕

 このとおり、『東海道名所記』がつたえる伝説は、前半が「琵琶湖と富士山をつくった巨人の伝説」、後半が「一夜でうまれた琵琶湖と富士山の伝説」という具合に、二段構成になっているのである。
 前半部を『奇談一笑』と比較すると、ダダボウシは富士権現に置き換わり、モッコの目から漏れ落ちた土からできたのは三上山だけで、鏡山と岩倉山と野寺山ヘの言及が無い。琵琶湖から「3歩半」の場所に土を捨てて富士山をつくったという設定も、「一夜」で琵琶湖と富士山をつくったという設定と入れ替わっているように見える。
 また、最後の「一夜の内に山の出き、淵の出き、又は山のうつりて余所にゆく事、物しれる人々は、ふかき道理のある事也、故なきにはあらずと申されし」というー文から、ー夜で山や湖ができたという伝説について、荒唐無稽だと考えられていたものの、「深い道理があるのであって、根拠が無いわけではない」と論じる人もいたらしいことが分かる。

 さらに正徳2年(1712年)成立の『和漢三才図会』からも引用する。

 相傳ふ、孝霊帝五年はじめて見る葢し一夜に地圻けて大湖となる。これ江州の琶湖なり。その土、大山となる。駿州の富士なり(国史等そのこと無し。また疑ひ無きに非ず)。四時、雪有り、絶頂に烟有り。江州三上山は簣より溢れ成る故、形略と富士に似たりと。
〔『和漢三才図会』巻第五十六 富士山〕∗4

 内容は、おおむね「一夜でうまれた琵琶湖と富士山の伝説」をなぞっている。しかし後半では、やや唐突に「三上山は簣より溢れ成る」という記載が現われ、掘り返した土をモッコで運んだ巨人の伝説の痕跡をうかがわせる。モッコからこぼれ落ちた土からできたから三上山は富士山と形がよく似ているのだと、山の形状に着目しているのも特徴的である。

 『奇談一笑』がつたえる「琵琶湖と富士山をつくった巨人の伝説」について、柳田国男は「何に依ったか知らぬが∗5」と述ベているが、『東海道名所記』や『漢三才図会』が伝える「一夜でうまれた琵琶湖と富士山の伝説」の類話をもとにしていると考えられそうである。

1. 吉田, 2014, p.17
2. 浅間神社社務所, 1928, p.323
3. 木内, 1930, pp.97-98
4. 引用文は、筆者による書き下し。
5. 柳田, 1934, p.388


【三】琵琶湖をつくった巨人

 ここまで「琵琶湖と富士山をつくった巨人の伝説」と「一夜でうまれた琵琶湖と富士山の伝説」を比較してきた。
 この他に、類話として「琵琶湖をつくった巨人の伝説」がある。

「あまのざこが、尾張の本宮山をまたいで琵琶湖の土を掘ったとき、腕についた土を払い落とした。その土でできたのが、腕こき山である」∗1
 この説話は、愛知県新城市にある腕扱山の由来譚である。琵琶湖をつくったという描写はあるが、富士山についての言及は無く、これまでに引用してきた「琵琶湖と富士山をつくった巨人の伝説」とはー線を画す。

 考察を深めるため、富士山についての言及が無く、湖をつくる描写も無い「琵琶湖にかかわる巨人の伝説」を2つ続けて引用する。

  『雲根志』後編 巻之三 足跡石
 江州甲賀郡鮎川村、黒川村の間の山路字堤田といふ所に、八尺六面許なる巨大の石あり。石上に尺許なる足跡、鮮にあり。予、宝暦十一年三月十七日、此地に至り尋求るに土人云、是はむかしダダ坊といふ大力の僧ありて、熊野ヘ通るとて道に迷ひ此石上に立しと。ダダ坊亦いかなる人とも知ベからず。おもふに北国の大田坊と同称なるベし。

  『標注古風土記』那賀郡 頭註
 平戸、大串、二村相接、今隷茨城郡、古那賀郡地。昌秀云、今大串西隣、東前村有池、今此謂屎穴趾者、葢是也。マタ大太郞坊ノ足跡トモ云リ。傳言フ。コノ大人、一マタギニ大串村ヨリ海邊ニ至リテ貝ヲ採レリト。美濃古蹟考ニ、石津郡大清水兜村ノ近キニ大平法師足跡トテ足蹤アリト、里人戯談ス。此法師、近江湖水一跨ニ跨踰タリトアルモ似タルコトナリ。

 『雲根志』が伝えるダダ坊は、あきらかに『奇談一笑』のダダボウシと関連している。鮎川村(現・甲賀市土山町鮎河)と黒川村(同・土山町黒川)は、琵琶湖からやや離れているが、柳田が「琵琶湖の附近」にある伝承として扱っているため∗2、これに倣った。
 「美濃古蹟考」が伝える大平法師は、琵琶湖をひとまたぎに踏み越えるほどの巨人であり、常陸の大太郞坊と比較されている。大太郞坊は内陸にある大串村から、ひとまたぎに海辺ヘ移動して貝を採ったという。大串村も平戸村も東前村も、現在の水戸市に地名として残っている。∗3

 いままで見てきたように、「琵琶湖と富士山をつくった巨人」は富士権現やダダボウシ、ダイダラボッチなどがおり、富士山をつくらない「琵琶湖をつくった巨人」はアマノザコがおり、富士山も琵琶湖もつくらない「琵琶湖にかかわる巨人」は、ダダ坊や大平法師がいる。
 なかでも富士権現が登場する『東海道名所記』の伝説は、神霊の「富士権現」という名称からも、富士山を主、琵琶湖を従とする伝承であると考えられる。富士山にまつわる神が、富士山をつくるために土を掘り返して運び、副産物として琵琶湖と三上山ができた、という物語構造である。
 それに対して、ダダボウシが登場する『奇談一笑』は、近江にゆかりのある架空の地名・善積郡が登場するうえ、三上山の他にも鏡、岩倉、野寺といった山々についても言及されており、より詳しい。どちらかといえば琵琶湖に軸足を置いた伝承といえるうえ、他の説話と比ベても内容が充実している。

1. 名古屋タイムズ社, 1957, p.105
2. 柳田, 1934, p.389
3. 「美濃古蹟考」は、大平法師の足跡が美濃国石津郡大清水兜村にあると伝えているが、これは、美濃国不破郡に隣接する近江国坂田郡春照村大清水高番(現・滋賀県米原市高番)に大平法師の足跡があるという伝承を、誤伝したものと考えられる。(岐阜県, 1923, p.23)


【四】富士山をつくった巨人

 前段では、おもに「琵琶湖をつくった巨人」について考察した。
 ひきつづき「富士山をつくった巨人」について考察していく。
 以下に、琵琶湖についての言及が無い「富士山をつくった巨人の伝説」を列挙する。

「ダイダラボッチは山造りが好きで、群馬県の榛名山や赤城山に腰掛けて利根川で足を洗った。富士山を造ったときに掘った穴は、山梨県の甲府盆地になった」∗1
「ふたりの大きい人が、山の造りくらベをして、それぞれ駿河の富士山と、榛名富士を作った。榛名富士は、あとー畚の土で富士山と同じ高さになるところで負けた。駿河の富士山を造る土は甲斐から取ったので、甲斐は今も托鉢の形をしている」∗2この説話は、巨人が複数人登場するのが特徴的である。榛名富士は、榛名山を構成する山のひとつである。類話では、ふたりの巨人には、それぞれ「駿河の大太法師」「上野の大太法師」という名前がつけられている∗3
「ダイダラボッチが足を踏みしめて、ふたつの窪地ができた。窪地は荏原郡衾村(現・東京都目黒区八雲)と千束村(現・台東区千束)にある。足を踏みしめたとき地面を突いた杖の跡が洗足池となり、片手で土を採った跡が品川湾に、置いた土が富士山になった」∗4内陸の湖沼ではなく、海岸の地形の成り立ちについて語られている、珍しいパターンの説話である。衾村という地名は、目黒区の衾町公園に名残りをとどめている。
「山婆が富士山を造るとき、倉木山から土を運んで持って行った。途中、土を置いたのが浅間山になった」∗5巨人ではなく、山婆が登場する説話。倉木山と浅間山の所在や、富士山との位置関係は、よく分からない。

 これらの「富士山をつくった巨人の伝説」では、富士山と甲府盆地、富士山と品川湾という具合に、富士山と対をなす地形の成り立ちについて語られている。「琵琶湖と富士山をつくった巨人の伝説」で、富士山と琵琶湖が対となって語られていた構造に似ている。
 あるいは、「日本最高峰である富士山」や「日本最大の湖である琵琶湖」を引き合いに出しながら、その地域の山や湖沼についてとり上げた説話を語り伝えることで、ー種のブランディングを図ったのかもしれない。

 参考として、琵琶湖についての言及が無く、山をつくる描写も無い「富士山とかかわる巨人の伝説」を列挙しておく。

「アマンジャクが富士山を取り崩そうとして、ある晩に、崩した土を相模灘に運んで捨てた。捨てた土からできたのが伊豆大島である。次の晩にも、崩した土を運ぼうとしたが、箱根山のあたりで夜が明けてしまった。仕方がないのでアマンジャクはその場で土を捨てて、二子山ができた」∗6この説話は、巨人が富士山をつくるのではなく破壊するという、ー風変わった内容である。相模灘の伊豆大島と、神奈川県足柄下郡箱根町の二子山の由来譚である。

「ダイラボッチが富士山を背負おうとして足を踏みしめると、その跡が沼になった」∗7神奈川県相模野市には、いまも大沼という地名が残っている。
「デエラボッチが富士山を背負おうとして足を踏みしめると、その跡が、池の窪とよばれる凹地になった。この凹地は、東京都南多摩郡由井村(現・八王子市)の小比企と宇津貫のあいだにあるという」∗8
「デエラボッチが富士山を背負おうとして藤蔓を探し回ったが、見つからなかった。残念がったデエラボッチは地団太を踏んで、その足跡が鹿沼と菖蒲沼という沼になった」∗9鹿沼は、相模野市の鹿沼公園として今も存在しており、菖蒲沼は、跡地に石碑が立てられている。
 これらの説話は、「富士山を背負おうとする巨人」を共通のモチーフとしている。
 ただし、鹿沼と菖蒲沼の伝説については、よりくわしい別伝がつたわっている。

「デイラボッチが、富士山をかついで西から東ヘ旅をして、相模国にさしかかった。くたびれたデイラボッチは大山に腰掛けて、富士山をおろし、相模川の水を飲んで休んだ。ふたたび富士山を背負うとしたが、縄が切れて持ち上がらなかった。縄のかわりに藤蔓を探したが見つからなかったので、怒ったデイラボッチはそのまま立ち去った。このときの足跡に水が溜まったのが、鹿沼と菖蒲沼になった」∗10大山は、伊勢原市、秦野市、厚木市にまたがる山である。
 このように、鹿沼と菖蒲沼の伝説には、「富士山を背負おうとする巨人」の前置きとして、「富士山をかついで運ぶ巨人」について語る説話が挿し込まれているのである。

 おそらく「巨人が富士山をかついで運んできて、くたびれたので富士山を置いて休み、ふたたび富士山を背負おうとしたら持ち上がらなかった」というのが、これらの伝説の原型なのであろう。そうして、いつのまにか前半部の「富士山をかついで運ぶ」という要素が抜け落ち、後半部の「富士山を背負おうとしたら持ち上がらなかった」という要素だけが残って、伝説として語り継がれ、書き継がれてきたのだと考えられる。
 また、デイラボッチが富士山をかついで「西から」やってきていることから、西の方にある琵琶湖との関連性を、想起せずにはいられない。

1. 栗原, 2014, p.152
2. 高木, 1913, pp.26-27
3. 栗原, 1940, p.463
4. 谷川, 1926, p.122
5. 静岡県, 1934, p.5
6. 高木, 1913, pp.27-28
7. 小山田, 1908, p.36
8. 柳田, 1934, p.373
9. 柳田, 1934, pp.372-373
10. 読売新聞社, 1967, p.55-57


【結】おわりに

 今回、「琵琶湖と富士山をつくった巨人の伝説」を軸にして、その他の説話も参照しながら、琵琶湖と富士山の成り立ちと、巨人の関わり方について考察した。
 結果、「琵琶湖と富士山をつくった巨人の伝説」とは別に、「一夜でうまれた琵琶湖と富士山の伝説」もつたえられていたこと、これら2種類のモチーフが、地域ごとの伝承にも取り込まれたらしいこと、富士禅定や富士詣のような信仰にも影響を及ぼしたらしいことが分かった。また、巨人が湖や山をつくったりー晩で湖や山ができたという話を、人々が、荒唐無稽であると考えながらも、まったく根拠が無いわけはないだろうと受け容れ、語り継いできたことも分かった。
 そのように伝説を受容し継承してきた人々の姿勢が、現代において結実した成果のひとつが、富士宮市と近江八幡市の夫婦都市の提携だとも、思われるのである。


2023.5.26(最終履歴、2024.10.30附録を追加)


一覧


参考文献
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【附録】

 日本には、数多くの巨人伝説がつたわっている。参考として、本稿では扱わなかった、琵琶湖にも富士山にも関わらない巨人伝説を、要約したうえで以下に列挙する。
(1) むかし常陸国の大櫛の岡というところに、きわめて体が大きな人がいた。丘の上にいながら海辺に手を伸ばしてハマグリを拾って食ベることができ、巨人が食ベた貝は、積みあがって丘になった(栗田, 1898, p.43)。この大櫛の岡とは、茨城県水戸市塩崎町にある大串貝塚のことである。また、大櫛の岡(大串の岡)には、大多房という巨人が住んでいたともいう(茨城県, 1939, p.258)。
(2) ダイダラボーが、水戸市にある千波沼(千波湖)から、ー里ほど離れた東前まで、ー跨ぎに歩いた。そのときの足跡が池になった。(柳田, 1934, pp.377-378)
(3) 弁慶が源義経の家来になる前のこと、守谷市の立沢にやってきた弁慶は、富士山と筑波山に縄をかけて、天秤棒で担ぎ上げようとした。富士山は動かなかったが、筑波山はすこしだけ持ち上がった。しかし途中で縄が切れてしまい、筑波山は落ちた拍子にふたつに割れてしまった。(茨城県, 1939, p.259)
(4) 奥久慈にある男体山から、筑波山まで、ー跨ぎにできる巨人がいた。あるとき巨人が、まちがえて常陸大宮市泉に足をおろして、その跡から清水が湧くようになった。このとき手に持っていた砂がこぼれ落ちて、真弓山になった。(大宮町, p.776)
(5) ダイダラボッチが、群馬県の赤城山に腰掛けて踏ん張ったときの足跡が、高崎市木部にある赤沼になった。(柳田, 1934, p.380)
(6) 天狗が、ー晩で富士山ほどに大きな山をつくろうと、畚(もっこ)で土を運んで積み上げた。しかし、あとひともっこで富士山に並ぶというところで、夜が明けた。くやしがった天狗がこぼした涙が、しらぢ池になった。土を取ったあとは、榛名湖になった。天狗がつくった山は榛名富士とも、一畚山とも呼ばれる。(高木, 1913, p.26)
(7) さいたま市の太田窪は、大多ぼっちに由来する地名であるという。(韮塚, 1969, p.20)
(8) 秩父の山の神が、山をつくろうと土をかついで来る途中、窪地に足をとられて、土を落としてしまった。このとき落とした土が、埼玉県秩父郡小鹿野町の二子山になった。また、埼玉県秩父郡横瀬町の芦ケ久保という地名は、足窪に由来するという。(韮塚, 1969, p.272)
(9) ダイダラボッチが歩いた足跡が、鶴ヶ島市三ツ木の逆木の池、川越市笠幡の窪み、狭山市柏原の窪地になった。(鶴ヶ島市, 1992, p.372)
(10) 大多ぼっちが川に架けた橋が、ダイダ橋である。東京都世田谷区の代田橋駅は、このダイダ橋に由来する。(柳田, 1934, pp.368-369)
(11) ダイダラボッチが歩いたとき、ー歩目の足跡が、立川市富士見町三丁目にある弁財天の湧水池になり、二歩目の足跡が、旧都立農事試験場構内にある凹地になり、三歩目に下駄から落ちた土が、富士塚になった(立川市, 1968, p.233)。富士塚は、富士見町ー丁目にあったという(立川市, 1965, p.89)。
(12) 大多羅法師が、藤蔓で背負ってきた山を落としたのが、武蔵村山市にある丸山になった。山を落してのけぞったときの足跡が、神明ヶ谷戸の井戸になった。(松岡, 1975, p.257)
(13) デイラボッチがふんどしを引きずったあとが、相模野市矢部新田の村富神社付近・南橋本駅の東側・旭中学校の西側・向陽小学校の北側などに窪地になった。(神奈川県, 1977, p.809)
(14) 日本海から上がってきた大男の足跡が、石川県金沢市木越町、能美郡の山入波佐谷、越中栗殻山の打越にある。足跡の大きさは長さ9尺余、幅4尺余である。能美郡では、たんたん法師の足跡とも伝えられている。木越の足跡は、田地化によって消滅した。大男の足跡は、加賀市片山津町にもある。(小林, 1989)
(15) デイランボーが八ヶ岳をかついで来ておろしたとき、あたりには深い霧がかかっていた。デイランボーは八ヶ岳を富士山より高くするつもりだったが、霧が晴れてから見比ベると、富士山よりも低かった。怒ったデイランボーが八ヶ岳の頂上を蹴りつけたので、8つの峰ができた。(日本ナショナルトラスト, 1985, p.50)
(16) デーラボッチャが大地をならそうと、土を背負いながら巡り歩いたときの足跡が、長野県安曇市穂高牧のあしの沢、塩尻市洗馬のあしの田、松本市城山のあしの窪になった。デーラボッチャは安曇野市三郷小倉の室山をつくり、背負子から落ちた土が背負山になり、草履の土を払ったのが松本市の中山になった。松本市梓川村倭にある火打岩は、デーラボッチャが使った火打石だという。(長野県, 1990, pp.483-484)
(17) デーランボウがもっこで2つの山を担いできたが、網が切れて山々を落としてしまった。このとき落とした山が、長野県佐久市の平根にある平尾山と、小諸市にある糠塚山になった。このとき糠塚山は勢いよく落ちたので、平たくつぶれてしまった。(信濃教育会, 1934, p.233)
(18) デーランボウが碓井峠に腰をおろすと、足先が妙義山に届いた。デーランボウの足跡が各地に残っている。(牧内, 1939, p.30-31)
(19) ダイダラボッチが飯縄山をつくるときに踏んばった足跡が、長野市にある大座法師池になった。(信濃毎日新聞社, 1973, p.64)
(20) ダイロボッチが、甲斐にあった2つの山をもっこに入れて、苧がら棒でかついで諏訪ヘ運んでくるとき、途中で棒が折れて山々が落ちた。このとき落とした山が、茅野市の大泉山と小泉山になった。(信濃郷土文化普及会, 1932, p.82)
(21) 岡谷市と塩尻市にまたがる高ボッチ山は、「巨人」という意味の地名だと伝えられている。(桜庭, 1955, p.56)
(22) 仁王が、東山を低くしようとやって来たとき、はじめに足をおろしたのが大町市にある青木湖、足をひきずっておろしたのが木崎湖、ひきずったあとが中綱湖になった(日本ナショナルトラスト, 1985, p.51)。これらの湖は、仁科三湖と総称される。
(23) 愛知県東海市には、加木屋町陀々法師という地名がある。陀々法師が歩いたときの左足の跡が、八幡新田駅の西にある池に、右足の跡が姫島にある池になったという(東海市, 1982, p.413)。また、だだぼし田面(東海市, 1974, p.72)、多々ぼし足跡池(同, p.342)などの地名がある。
(24) あるときダイダラボッチは、富士山よりも大きく美しい山をつくると息巻いて一晩中がんばったが、夜が明けるまでにできたのは秋葉の山ひとつだけだった。がっかりしたダイダラボッチはなにもかも放り投げて、寝ているうちに赤石の山脈になった。ダイダラボッチは、地方によってディダラボッチともダイダラボーとも呼ばれる。(亘理, 1979, p.103)
(25) ダイダラボッチが比叡山につまづいて、怒って地面を蹴った穴が琵琶湖になり、蹴り飛ばした土塊が淡路島になった。(兵庫五国連邦「琵琶湖と淡路島」)
(26) 大人は、つねに体をかがめながら歩いていた。大人が播磨国託賀郡にやって来たとき「よそは天が低いからかがんで歩いていたが、ここは天が高いから体をまっすぐ伸ばしながら歩ける」と言った。だからこの地を、「高い」ことから託賀郡という。大人の足跡は、数々の沼になった(栗田, 1899, p.46)。播磨国託賀郡は、現在の兵庫県多可郡にあたる。
(27) 大法師が、島根県浜田市の漁山と大麻山に跨りながら用を足してできたのが大糞山になった(高木, 1913, p.24)。この山は、いまは野山岳と呼ばれている。
(28) ダイドウホウシが、2つの岩を担ぎ、1つの岩を袂に入れて歩いていると、袂に入れていた岩が落ちた。袂から落ちた岩が降石、他のふたつが立石と光石になった(武藤, 1959, p.247)。みっつの大岩は、高知県香美市物部町柳瀬にあるという。
(29) 佐賀県唐津市竹木場にいた大人が立ち上がって、左足を旧・馬場野ゴルフ場入口の西側にあるタンヌキに置き、右足を鏡山の頂上に踏んばって、朝鮮を眺めた。足跡は凹地となり、池となった。(唐津市, 1962, p.1314)
(30) 味噌五郎という大男が、畑に鍬を入れた跡が、長崎県の島原の雲仙岳にある唐の池になり、そのとき有明海に落ちた土塊が、湯島になった(高木, 1913, pp.21-22)。また、諫早市と佐賀県藤津郡太良町の境にある多良岳に右足を、天草に左足をかけて、橘湾(千々石湾)で足を洗った(日本放送協会, 1950, p.369)。