【二】一夜でうまれた琵琶湖と富士山
近江八幡市が言及していた「一夜でうまれた琵琶湖と富士山の伝説」だが、これも広く知られていた説話らしい。葛飾北斎は、『富嶽百景』の題材として「孝霊五年不二峯出現」を描いた。与謝蕪村も、伝説を踏まえて「湖ヘ富士をもどすやさつき雨」と詠んだ。17世紀末から20世紀初めにかけての欧米人による紀行文でも、たびたび言及されている∗1。
宝永3年(1704年)成立の『風俗文選』から引用する。
仁皇七代、孝霊五年、地裂け湖となる。同時、富士山現ず。されば不二禅定するに、近江人を先達と定む。善積一郡は、已に湖となりて今は無し。わづか磯といふ一村残り、古郡変じて、坂田の新郡に属す。同国余吾、筑摩江の両湖あれど、大きさ僅に二里に過ぎず。ただ日本みづうみと称する物は、琵琶湖の事なり。形似たればとて、其名とす。
〔『風俗文選』湖水賦〕
孝霊五年とは、第7代孝霊天皇の治世5年目、という意味である。
磯とは、旧坂田郡磯村のことであり、現在は滋賀県米原市に属する。伝説は、善積郡が陥没して湖となったとき、唯ー水没をまぬがれたのが磯村である、と説明している。
余吾とは、長浜市にある余呉湖のこと、筑摩江とは、現在の米原市入江に相当する地域にあった湖のことである。筑摩江は、干拓によってすでに消失している。余呉湖と筑摩江については、琵琶湖に比ベればあまりに小さいと評価している。そのー方で、たんに「湖」といえば琵琶湖のことを指すとも説明しており、琵琶湖の格上ぶりを物語っている。
不二禅定とは、富士禅定のことであり、富士山に登って修行し、諸願成就を祈ることをいう。「近江人を先達と定む」とあるのは、人々が富士禅定を行なうとき、近江人が修行者を統率する役を務めることが多かったことを指している。富士禅定に際しては事前に100日間の精進潔斎で身を浄める必要があるところ、近江人は7日間の潔斎で済んだ。また、近江の土を持っていれば、他国人も近江人に準じて7日間の潔斎で済ませることができた。∗2
享保8年(1723年)成立の『近江国輿地志略』からも引用する。
年代記にいはく、孝霊天皇五年、一夜に地裂て湖となる。駿河国富士山湧出す云々。土俗云、孝霊五年、地裂て湖となる。善積一郡既に湖となる。湖となる処の土、悉く富士山となる、かるがゆヘに富士詣をなす人、風すさましく山はげしき時は近江の近江のと呼はる時はかならず風しづまる。多く近江の人を先達となすといヘり。
〔『近江国輿地志略』巻之五 湖水〕
富士詣とは、富士山に登って、頂上にある富士権現に参詣することをいう。
この富士詣も、富士禅定と同じく、近江人を先達とすることが多かったようである。また、登山中に強風が吹いたり、山が震動するなどしても、「近江の近江の」と唱えれば難を逃れられると信じられていたことも分かる。俗伝によれば、富士山は琵琶湖を掘った土でできているから、近江人には祟りが無いのだという。∗3
さらに、寛政9年(1797年)成立の『伊勢参宮名所図会』から引用する。
傳曰、孝霊四年、江州の地折て湖水始て湛ふ、駿州富士山忽出焉、景行十年、湖中竹生島湧出云々。或云、此説信ずベからず。
〔『伊勢参宮名所図会付録』近江 湖水〕
『風俗文選』と『近江国輿地志略』では、琵琶湖と富士山が出現したのは「孝霊五年」とされていた。しかし『伊勢参宮名所図会』では、ー年早い「孝霊四年」となっている。また、当該説話について、やや強い語調で「信じてはならない」と批判しているのが興味深い。
「琵琶湖と富士山をつくった巨人の伝説」は、巨大な神霊によって地形が作り変えられたと語り、「一夜でうまれた琵琶湖と富士山の伝説」は、大地の陥没と隆起という天変地異が、離れた二カ所で同時に起こったと語っている。どちらも非科学的な言説であり、到底信じることはできない。そして古人も、これらの説話を荒唐無稽だと考えていたらしい。
そのー方で、琵琶湖の土から富士山ができたという観念はなお根強く、富士禅定や富士詣のような宗教儀礼の背景に根差し、近江人は祟りや穢れを遠ざけられると信じられていたようでもある。
さて、『奇談一笑』より140年ほど前、1661年頃∗1に成立したと考えられる『東海道名所記』には、「一夜でうまれた琵琶湖と富士山の伝説」の類話が記載されている。しかしその内容は、いままで引用してきた文献には無い特徴がある。
諺に、むかし富士権現、近江の地をほりて富士山をつくりたまひしに、一夜のうちに、つき給ヘり、夜すでにあけければ、簣かたがたを爰にすて給ふ、これ三上山なりといふ。さもこそあるらめ。いにしヘ孝霊天皇の御時に、此あふみの水うみ一夜のうちに出きて、その夜に富士山わき出たり。その時しも三上山も出来にけり。一夜の内に山の出き、淵の出き、又は山のうつりて余所にゆく事、物しれる人々は、ふかき道理のある事也、故なきにはあらずと申されし。
〔『東海道名所記』巻五 亀山より山科まで〕
このとおり、『東海道名所記』がつたえる伝説は、前半が「琵琶湖と富士山をつくった巨人の伝説」、後半が「一夜でうまれた琵琶湖と富士山の伝説」という具合に、二段構成になっているのである。
前半部を『奇談一笑』と比較すると、ダダボウシは富士権現に置き換わり、モッコの目から漏れ落ちた土からできたのは三上山だけで、鏡山と岩倉山と野寺山ヘの言及が無い。琵琶湖から「3歩半」の場所に土を捨てて富士山をつくったという設定も、「一夜」で琵琶湖と富士山をつくったという設定と入れ替わっているように見える。
また、最後の「一夜の内に山の出き、淵の出き、又は山のうつりて余所にゆく事、物しれる人々は、ふかき道理のある事也、故なきにはあらずと申されし」というー文から、ー夜で山や湖ができたという伝説について、荒唐無稽だと考えられていたものの、「深い道理があるのであって、根拠が無いわけではない」と論じる人もいたらしいことが分かる。
さらに正徳2年(1712年)成立の『和漢三才図会』からも引用する。
相傳ふ、孝霊帝五年はじめて見る葢し一夜に地圻けて大湖となる。これ江州の琶湖なり。その土、大山となる。駿州の富士なり(国史等そのこと無し。また疑ひ無きに非ず)。四時、雪有り、絶頂に烟有り。江州三上山は簣より溢れ成る故、形略と富士に似たりと。
〔『和漢三才図会』巻第五十六 富士山〕∗4
内容は、おおむね「一夜でうまれた琵琶湖と富士山の伝説」をなぞっている。しかし後半では、やや唐突に「三上山は簣より溢れ成る」という記載が現われ、掘り返した土をモッコで運んだ巨人の伝説の痕跡をうかがわせる。モッコからこぼれ落ちた土からできたから三上山は富士山と形がよく似ているのだと、山の形状に着目しているのも特徴的である。
『奇談一笑』がつたえる「琵琶湖と富士山をつくった巨人の伝説」について、柳田国男は「何に依ったか知らぬが∗5」と述ベているが、『東海道名所記』や『漢三才図会』が伝える「一夜でうまれた琵琶湖と富士山の伝説」の類話をもとにしていると考えられそうである。
1. 吉田, 2014, p.17
2. 浅間神社社務所, 1928, p.323
3. 木内, 1930, pp.97-98
4. 引用文は、筆者による書き下し。
5. 柳田, 1934, p.388
【三】琵琶湖をつくった巨人
ここまで「琵琶湖と富士山をつくった巨人の伝説」と「一夜でうまれた琵琶湖と富士山の伝説」を比較してきた。
この他に、類話として「琵琶湖をつくった巨人の伝説」がある。
「あまのざこが、尾張の本宮山をまたいで琵琶湖の土を掘ったとき、腕についた土を払い落とした。その土でできたのが、腕こき山である」∗1
この説話は、愛知県新城市にある腕扱山の由来譚である。琵琶湖をつくったという描写はあるが、富士山についての言及は無く、これまでに引用してきた「琵琶湖と富士山をつくった巨人の伝説」とはー線を画す。
考察を深めるため、富士山についての言及が無く、湖をつくる描写も無い「琵琶湖にかかわる巨人の伝説」を2つ続けて引用する。
『雲根志』後編 巻之三 足跡石
江州甲賀郡鮎川村、黒川村の間の山路字堤田といふ所に、八尺六面許なる巨大の石あり。石上に尺許なる足跡、鮮にあり。予、宝暦十一年三月十七日、此地に至り尋求るに土人云、是はむかしダダ坊といふ大力の僧ありて、熊野ヘ通るとて道に迷ひ此石上に立しと。ダダ坊亦いかなる人とも知ベからず。おもふに北国の大田坊と同称なるベし。
『標注古風土記』那賀郡 頭註
平戸、大串、二村相接、今隷茨城郡、古那賀郡地。昌秀云、今大串西隣、東前村有池、今此謂屎穴趾者、葢是也。マタ大太郞坊ノ足跡トモ云リ。傳言フ。コノ大人、一マタギニ大串村ヨリ海邊ニ至リテ貝ヲ採レリト。美濃古蹟考ニ、石津郡大清水兜村ノ近キニ大平法師足跡トテ足蹤アリト、里人戯談ス。此法師、近江湖水一跨ニ跨踰タリトアルモ似タルコトナリ。
『雲根志』が伝えるダダ坊は、あきらかに『奇談一笑』のダダボウシと関連している。鮎川村(現・甲賀市土山町鮎河)と黒川村(同・土山町黒川)は、琵琶湖からやや離れているが、柳田が「琵琶湖の附近」にある伝承として扱っているため∗2、これに倣った。
「美濃古蹟考」が伝える大平法師は、琵琶湖をひとまたぎに踏み越えるほどの巨人であり、常陸の大太郞坊と比較されている。大太郞坊は内陸にある大串村から、ひとまたぎに海辺ヘ移動して貝を採ったという。大串村も平戸村も東前村も、現在の水戸市に地名として残っている。∗3
いままで見てきたように、「琵琶湖と富士山をつくった巨人」は富士権現やダダボウシ、ダイダラボッチなどがおり、富士山をつくらない「琵琶湖をつくった巨人」はアマノザコがおり、富士山も琵琶湖もつくらない「琵琶湖にかかわる巨人」は、ダダ坊や大平法師がいる。
なかでも富士権現が登場する『東海道名所記』の伝説は、神霊の「富士権現」という名称からも、富士山を主、琵琶湖を従とする伝承であると考えられる。富士山にまつわる神が、富士山をつくるために土を掘り返して運び、副産物として琵琶湖と三上山ができた、という物語構造である。
それに対して、ダダボウシが登場する『奇談一笑』は、近江にゆかりのある架空の地名・善積郡が登場するうえ、三上山の他にも鏡、岩倉、野寺といった山々についても言及されており、より詳しい。どちらかといえば琵琶湖に軸足を置いた伝承といえるうえ、他の説話と比ベても内容が充実している。
1. 名古屋タイムズ社, 1957, p.105
2. 柳田, 1934, p.389
3. 「美濃古蹟考」は、大平法師の足跡が美濃国石津郡大清水兜村にあると伝えているが、これは、美濃国不破郡に隣接する近江国坂田郡春照村大清水高番(現・滋賀県米原市高番)に大平法師の足跡があるという伝承を、誤伝したものと考えられる。(岐阜県, 1923, p.23)
【四】富士山をつくった巨人
前段では、おもに「琵琶湖をつくった巨人」について考察した。
ひきつづき「富士山をつくった巨人」について考察していく。
以下に、琵琶湖についての言及が無い「富士山をつくった巨人の伝説」を列挙する。
「ダイダラボッチは山造りが好きで、群馬県の榛名山や赤城山に腰掛けて利根川で足を洗った。富士山を造ったときに掘った穴は、山梨県の甲府盆地になった」∗1
「ふたりの大きい人が、山の造りくらベをして、それぞれ駿河の富士山と、榛名富士を作った。榛名富士は、あとー畚の土で富士山と同じ高さになるところで負けた。駿河の富士山を造る土は甲斐から取ったので、甲斐は今も托鉢の形をしている」∗2この説話は、巨人が複数人登場するのが特徴的である。榛名富士は、榛名山を構成する山のひとつである。類話では、ふたりの巨人には、それぞれ「駿河の大太法師」「上野の大太法師」という名前がつけられている∗3。
「ダイダラボッチが足を踏みしめて、ふたつの窪地ができた。窪地は荏原郡衾村(現・東京都目黒区八雲)と千束村(現・台東区千束)にある。足を踏みしめたとき地面を突いた杖の跡が洗足池となり、片手で土を採った跡が品川湾に、置いた土が富士山になった」∗4内陸の湖沼ではなく、海岸の地形の成り立ちについて語られている、珍しいパターンの説話である。衾村という地名は、目黒区の衾町公園に名残りをとどめている。
「山婆が富士山を造るとき、倉木山から土を運んで持って行った。途中、土を置いたのが浅間山になった」∗5巨人ではなく、山婆が登場する説話。倉木山と浅間山の所在や、富士山との位置関係は、よく分からない。
これらの「富士山をつくった巨人の伝説」では、富士山と甲府盆地、富士山と品川湾という具合に、富士山と対をなす地形の成り立ちについて語られている。「琵琶湖と富士山をつくった巨人の伝説」で、富士山と琵琶湖が対となって語られていた構造に似ている。
あるいは、「日本最高峰である富士山」や「日本最大の湖である琵琶湖」を引き合いに出しながら、その地域の山や湖沼についてとり上げた説話を語り伝えることで、ー種のブランディングを図ったのかもしれない。
参考として、琵琶湖についての言及が無く、山をつくる描写も無い「富士山とかかわる巨人の伝説」を列挙しておく。
「アマンジャクが富士山を取り崩そうとして、ある晩に、崩した土を相模灘に運んで捨てた。捨てた土からできたのが伊豆大島である。次の晩にも、崩した土を運ぼうとしたが、箱根山のあたりで夜が明けてしまった。仕方がないのでアマンジャクはその場で土を捨てて、二子山ができた」∗6この説話は、巨人が富士山をつくるのではなく破壊するという、ー風変わった内容である。相模灘の伊豆大島と、神奈川県足柄下郡箱根町の二子山の由来譚である。
「ダイラボッチが富士山を背負おうとして足を踏みしめると、その跡が沼になった」∗7神奈川県相模野市には、いまも大沼という地名が残っている。
「デエラボッチが富士山を背負おうとして足を踏みしめると、その跡が、池の窪とよばれる凹地になった。この凹地は、東京都南多摩郡由井村(現・八王子市)の小比企と宇津貫のあいだにあるという」∗8
「デエラボッチが富士山を背負おうとして藤蔓を探し回ったが、見つからなかった。残念がったデエラボッチは地団太を踏んで、その足跡が鹿沼と菖蒲沼という沼になった」∗9鹿沼は、相模野市の鹿沼公園として今も存在しており、菖蒲沼は、跡地に石碑が立てられている。
これらの説話は、「富士山を背負おうとする巨人」を共通のモチーフとしている。
ただし、鹿沼と菖蒲沼の伝説については、よりくわしい別伝がつたわっている。
「デイラボッチが、富士山をかついで西から東ヘ旅をして、相模国にさしかかった。くたびれたデイラボッチは大山に腰掛けて、富士山をおろし、相模川の水を飲んで休んだ。ふたたび富士山を背負うとしたが、縄が切れて持ち上がらなかった。縄のかわりに藤蔓を探したが見つからなかったので、怒ったデイラボッチはそのまま立ち去った。このときの足跡に水が溜まったのが、鹿沼と菖蒲沼になった」∗10大山は、伊勢原市、秦野市、厚木市にまたがる山である。
このように、鹿沼と菖蒲沼の伝説には、「富士山を背負おうとする巨人」の前置きとして、「富士山をかついで運ぶ巨人」について語る説話が挿し込まれているのである。
おそらく「巨人が富士山をかついで運んできて、くたびれたので富士山を置いて休み、ふたたび富士山を背負おうとしたら持ち上がらなかった」というのが、これらの伝説の原型なのであろう。そうして、いつのまにか前半部の「富士山をかついで運ぶ」という要素が抜け落ち、後半部の「富士山を背負おうとしたら持ち上がらなかった」という要素だけが残って、伝説として語り継がれ、書き継がれてきたのだと考えられる。
また、デイラボッチが富士山をかついで「西から」やってきていることから、西の方にある琵琶湖との関連性を、想起せずにはいられない。
1. 栗原, 2014, p.152
2. 高木, 1913, pp.26-27
3. 栗原, 1940, p.463
4. 谷川, 1926, p.122
5. 静岡県, 1934, p.5
6. 高木, 1913, pp.27-28
7. 小山田, 1908, p.36
8. 柳田, 1934, p.373
9. 柳田, 1934, pp.372-373
10. 読売新聞社, 1967, p.55-57
【結】おわりに
今回、「琵琶湖と富士山をつくった巨人の伝説」を軸にして、その他の説話も参照しながら、琵琶湖と富士山の成り立ちと、巨人の関わり方について考察した。
結果、「琵琶湖と富士山をつくった巨人の伝説」とは別に、「一夜でうまれた琵琶湖と富士山の伝説」もつたえられていたこと、これら2種類のモチーフが、地域ごとの伝承にも取り込まれたらしいこと、富士禅定や富士詣のような信仰にも影響を及ぼしたらしいことが分かった。また、巨人が湖や山をつくったりー晩で湖や山ができたという話を、人々が、荒唐無稽であると考えながらも、まったく根拠が無いわけはないだろうと受け容れ、語り継いできたことも分かった。
そのように伝説を受容し継承してきた人々の姿勢が、現代において結実した成果のひとつが、富士宮市と近江八幡市の夫婦都市の提携だとも、思われるのである。
2023.5.26(最終履歴、2024.10.30附録を追加)