「退魔」という言葉がある。
ファンタジー作品によく登場する用語であり、おおむね「魔物や悪霊を退治する」という意味で使われ、そのような技術を用いる者は「退魔師」と呼ばれる。退魔も、退魔師も、主要な国語辞典には記載されていない。一方、退魔という言葉は豊田有恒(1938-2023)による造語とされることが多く、「『退魔』という言葉はSF作家の豊田有恒先生が著作の中で用いた造語が始まりだ」(田中, F.E.A.R., 2008, p.21)という具合に説明される。豊田本人も、退魔は、豊田自身の造語だと認識していたようである∗1。p>
ところで、フリー百科事典「Wikipedia」には、かつて「退魔」という個別ページが存在していた。
当該ページは2022年5月24日に削除されたが、削除された理由は、記事の内容が独自の研究結果の発表であり、退魔をテーマにした文献や論文にもとづいていないから、というものであった∗2。じつはこのページの編集には、筆者も関与したことがある。当初は、退魔が豊田の造語であるように読み取れる内容だったが、情報が不足していると感じ、生涯で初めてWikipediaに加筆したのだった。
結局、Wikipediaの「退魔」のページは削除されてしまったが、さいきん当該ページの内容が別サイトにまるごと転載されているのを見かけた。懐かしく感じるとともに、退魔という言葉について再度考察したいという欲求が生まれたので、新情報もまじえながら、あらためて論述したい。
本稿では、豊田による造語とみなされがち∗3∗4な退魔という言葉について、複数の文献を参照しながら、実際には長い歴史を持つ古語であることを明らかにする。なお、引用文は可読性を高めるために適宜改行し、漢字の旧字体を新字体に置き換え、句読点などの記号を加除するなどして文体を整えた。
1. 「豊田有恒先生にお会いしたとき『「退魔」は先生の造語で、それ以後多用されるようになりましたね』と言うと『権利を主張すればよかったですね』と笑っておられた。」(芦辺, 2012.1.29, https://x.com/ashibetaku/status/163607506059407360)(2025.10.14)
2. おいしい豚肉, Naga-r-juna, 柏尾菓子, 2022.5.6-5.24(2025.10.14)
3. 「豊田有恒氏の『退魔戦記』に「降魔という言葉はあるが退魔など聞いたことがない」と明記されてて、作中では退魔船=タイムマシン。豊田先生の造語とばかり思ってたんですが。」(芦辺, 2010.10.14, https://x.com/ashibetaku/status/27306614537)、「退魔と言う言葉は豊田有恒による造語だと聞いていたが、こちらの寺が香華院から退魔寺に改称したのは江戸時代初期であるようなので、一般的に使われていたかどうかはともかく、古くからありはしたのだろう。」(梁瀬, 2012.4.1)、「退魔 魔物を退治すること。造語で、初出は豊田有恒著の小説『退魔戦記』。」(東方元ネタwiki 2nd>夢符「退魔符乱舞」, 2017.2.5-)(いずれも2025.10.14閲覧)
4. ピクシブ百科事典では「退魔」の項が「造語」に分類されている。(ピクシブ百科事典>退魔, 2016.5.25-)(https://dic.pixiv.net/a/退魔)(2025.10.14)
まずは、2022年に削除されたWikipediaの「退魔」のページ(以下、旧ページ)の内容を確認するため、「Stamp Factory大百科辞典」に転載されている全文を引用する。筆者が加筆した部分には、下線を付した。ただし、筆者のあいまいな記憶を頼りにしたため、加筆した箇所と範囲の正確性は、保証できない。
〔退魔〕
退魔(たいま)は、魔物を退治すること。「それを行う者のことを退魔師という」などの使われ方をする。
ファンタジー関連の漫画、小説、ゲーム等で見受けられる。
群馬県伊勢崎市の退魔寺(南北朝時代創立。宥秀和尚の代に退魔寺と改名。石田三成の妖怪退治伝説が由来とされる)の名称に用いられていることから、比較的古い時代から存在した言葉であると考えられる。だが、退魔という語がいつ頃成立し、文芸作品などで用いられるようになったのか、その正確な年代については不明である。
一般的な日本語の辞書などにおいても、退魔という言葉について記述されることはない。
この用語が一般文芸などにおいて最初に使われた年代は不明である。1940年の押川春浪の小説『塔中の怪』に「退魔の巨像」と呼ばれる像が登場しており、それは「もろもろ怨霊を退けんがため」に立てられた魔神の像であると描写されている。続いて1969年の豊田有恒の小説『退魔戦記』で、作品名の一部に「退魔」の語が使われた。作中に出てくる同名の架空の古文書について、作中人物が「無理に読めば『魔を退く』となって日本語としても不自然。普通は『降魔』を使うはず」と言っている。作中に出てくる乗り物の名称が「退魔船」(たいません)で、実はこれがタイムマシンであり、「退魔」は当て字や言葉遊びの類いと察せられる。この作品は純粋な時間SFであり、魔物に類するものは一切登場しない。その意味でも、ここでの「魔」は音合わせ以外の意味を持たないと見られる。
押川春浪や豊田有恒が退魔寺について知っていたかは不明であり、作品に用いられた退魔という語が偶然退魔寺の名称と一致した可能性もある。押川や豊田の作品と同時代にこの言葉が使われた形跡はほかになく、どちらもそれほど大当たりした作品ではなかった。しかし、1980年代から1990年代にかけての作品で「退魔」という言葉を使っている例には、荻野真の『孔雀王』シリーズや永久保貴一の『カルラ舞う!』シリーズなどがある。その後、1990年代に菊地秀行原作・斎藤岬作画の漫画『魔殺ノート退魔針』シリーズ(のちに菊地により小説化)や、TRPG『退魔戦記』が登場している。この頃にかなりのポピュラリティを得たとみられ、その後は21世紀に入ってからファンタジー系の作品でごく普通に、「退魔師」という語が見かけられるようになっている。その初期の例としては、いずれも2001年初出の『月と闇の戦記』シリーズ、『放課後退魔録』、『学園退魔戦記ZERO』(これは前述TRPGの関連作品)、などがある。近年の使用例では、常に「魔物や妖魔を退ける」という意味に使われる。〔出典: wikipedia〕∗1
もともとWikipediaの旧ページでは、退魔という言葉が文芸作品で使われた最初期の事例として『退魔戦記』(豊田, 1969)が挙げられていた。『退魔戦記』は、豊田(1964)が「SFマガジン」で発表した短編小説を、5年後に長編化したものである。旧ページでは、豊田が用いた退魔については、たんなる当て字もしくは言葉遊びの類であると説明されていた。
これに対して、筆者は、石田三成(1560-1600)にゆかりのある退魔寺と、小説『塔中の怪』(押川, 1940)について加筆した。退魔を含む寺号を古例として取り上げるとともに、豊田より20年以上さかのぼる小説の用例に言及することで、退魔という言葉が、「魔物や悪霊を退治する」という意味で昔から使われてきたことを示そうとしたのだった。∗2
1. Stamp Factory大百科辞典「退魔」(https://stampfactory.net/dictionary/?id=880735)(2025.10.14)
2. 伊藤(2017)は、小説『陰陽師』(1988-)が人気を博して漫画化(1993-)、ドラマ化(2001)、映画化(2001)されたことで、「退魔師」としての陰陽師のイメージが定着したと指摘している。あわせて、ライトノベルというジャンルにおいては、もともとRPG風世界観にもとづく冒険モノや「退魔モノ」が主流だったところ、2000年代以降は和風のものが増加したとも述べている。
3. おいしい豚肉, Naga-r-juna, 柏尾菓子, 2022.5.6-5.24(2025.10.14)
そもそもWikipediaの旧ページにあった、退魔という言葉について、豊田が作中人物に言わせたとされる「無理に読めば『魔を退く』となって日本語としても不自然」という評価は、妥当なのだろうか。
労を厭わず、『退魔戦記』から該当する台詞を引用しよう。
「(前略)表題のつけかたが、いかにも無細工な感じなの。退魔戦記とありますわね。仏法のほうでは、降魔調伏といって、魔を降すというふうには言うけど、魔を退くとは言わないと思うわ」〔豊田(1969), 2000, pp.19-20〕
退魔戦記と題された古文書が、鎌倉時代に書かれたものと推測できるのに、紙質や筆致などに違和感があるとして、ヒロイン・小夜がさまざまに指摘する場面である。「(前略)そいで、表題じゃ。これほどよい手をしとるに、題のつけ方が、いかにも無細工で無造作じゃ。退魔戦記。仏法のほうでは、降魔調伏と言うて、魔を降すちゅう言い方はするが、魔を退くちゅう言い方は、ようせん」〔豊田, 1964〕
最福寺の住職・真泉が、小夜とほぼ同様の台詞を述べている。ただし、長編版では「魔を退くとはいわないと思うわ」と、やや控えめな言葉づかいだったのに対して、短編版では、方言のせいか、「魔を退くちゅう言い方は、ようせん」と、強い断定口調であるようにも感じられる。
さて、引用した登場人物の物言いと、Wikipediaの旧ページの書きぶりとでは、印象が大きく異なる。
旧ページでは、退魔という言葉について「日本語として不自然。ふつうは『降魔』を使うはず」とされていた。一方、真泉は、退魔戦記が仏僧によって記述されたものであることを踏まえて、「仏法では『魔を退く』という言い方はしない。ふつうは『魔を降す』と言う」と論じている。「日本語として不自然」なのではなく、せいぜい、「仏法に帰依する僧侶の言葉づかいとして不自然」ということなのである。
では実際に、退魔という言葉は、仏教語として不自然なのだろうか。たしかに筆者も、仏典で使用される言葉としては「降魔」の方になじみがあり、「退魔」は聞かない。『岩波仏教辞典』でも「降魔」は立項されているが、「退魔」の語は見あたらない。しかし、用例がまったく無いのかというと、そういうわけでもない。
以下には、仏教の経典や説話集および寺伝における、退魔の用例を列挙する。適宜解説を加え、当該部分には下線を付した。ただし、たとえば「拂退魔緣」(塙, 1926, p.290)や「不退魔場陀羅尼」(高楠, 1924b, p.567)のような、退魔を含むが「魔を退く」と読み下すことができない語は、取り上げなかった。また、西晋の竺法護(239-316)が漢訳した経典『仏説海龍王経 巻三』請仏品 第十には「愛見世界尊自在王如来佛土菩薩。號退魔后魔王大士」(高楠, 1925, p.145)とあるが、「退魔后魔王」は「魔后魔王を退ける」と読み下すのが自然に思われるため、やはり取り上げなかった。
(1) 『宝星陀羅尼経 巻四』〔大集品 第四〕
「如来既是退魔者」(高楠, 1924b, p.553)
(2) 『沙石集 巻二』〔一 佛舍利感得人事 頭註〕
「信深シテ退魔拝仏事」〔渡辺, 1966, p.92〕
(3) 『三国伝記 巻九』〔目録〕
第十五 依善知識退魔遂往生事〔仏書刊行会, 1912, p.217〕
(4) 『日本社寺明鑑 甲斐国之部 巻二』〔蟹澤山長源寺〕
(前略)当山往古ハ人跡稀ナル魔境ニシテ、偶茲ニ到ル者ハ生命ヲ失フコト比々有リシニ依リ、開基救蟹法印此処ニ来リ、衆生ノ為メニ退魔セント欲シ、阿字観入シ玉フ処ヘ何ヤラン僧ノ形シタルモノ出現セリ。法印即問フテ曰ク汝何者ゾ、答ヘテ曰ク両足八足大足二足横行自在又両眼天ニ羞ズト、法印曰汝ハ是れ蟹ナラント、独杵を拈シテ投ゲ打テ、其背ニ当ルト同時ニ煙影天ニ上ルト見ヘシガ、忽彩雲ノ中ニ千手観世音示現シ玉ヘリ。〔北村, 1904〕
(5) 『大東京の現勢(第2版) 法人篇』〔龍燈山永福寺〕
(前略)弘仁十一年弘法大師其高弟数輩と当寺に宿泊し本尊の夢想を蒙りて親しく導師となり開眼会を修し因に退魔結界し給ふといふ。〔東京毎夕新聞社, 1934, p.35〕
以上のとおり、退魔という言葉は、仏教の経典(1)や説話集(2, 3)、寺伝(4, 5)でも使用されている。とくに「長源寺伝」(4)で、意思形の動詞「退魔せん」が使われているのが興味深い。
こうしたことから、退魔という言葉についての「仏法では魔を降すと言うが、魔を退くとは言わない」という小夜と真泉の見解は、疑問を呈する余地があると考えられる。
1. 久留宮, 2005, p.119
2. 渡辺, 1965
3. 簗瀬, 1940
4. 仏書刊行会, 1913, p.216
5. 東儀, 1934, p.29
第1章で言及した、石田三成による妖怪退治の伝説をつたえる退魔寺は、群馬県伊勢崎市美茂呂町(旧佐波郡茂呂村茂呂)に所在する。寺の間近には広瀬川が流れ、川には光円橋がかかる。
応安4年(1371)に、石岡城主・茂呂勘解由左衛門尉源義輝が、城内にあった光円坊を光円院に改め、道照を迎えて開山したのが、退魔寺の始まりである。茂呂氏の滅亡と石岡城の廃城によって、いちど衰退したが、宥秀が寺号を石岡山不動院退魔寺に改めて、再興した。∗1
これが、退魔寺が創建されてから「退魔寺」と号するまでの概要である。
石田三成による妖怪退治の逸話は、以下のように語られている。
(1) 〔退魔寺 由緒〕
(前略)宥秀和尚のとき退魔寺と改称し本寺格となる。所伝に依るに石田三成当地を過ぎし時、土橋(現在の光円橋)附近に毎夜妖怪(盗賊か)現れ、庶民為に苦難すと聞き、これを平げたるに依り寺号を改め、寺紋も又石田氏の紋を用ふるに至ると。〔石岡山不動院退魔寺住職 若槻慶隆〕〔松井, 1971〕
伝説では、天正18年(1590)、小田原城攻めに参加した三成が村民を苦しめる妖怪を退治し、その功績をたたえて、宥秀が寺号を退魔寺に改めたとされている∗2。しかし、これは史実に合わず、疑わしい。
元文3年(1738)の書状「茂呂村退魔寺由来」(以下「元文由来書状」という)では、光円坊を号した宥秀は、享禄2年(1529)に死亡したとされており∗3、永禄3年(1560年)に誕生した三成とは時代が合わない。宥秀が寺号を改めた時期は不明瞭だが、宥秀が死亡した1529年より前に改号したものと考えられる。∗4
また、同じく元文3年の書状「茂呂村書上帳」∗5(以下「元文書上帳」)や、延享元年(1744)の「堂宮寺地書上之事」、宝暦6年(1756)の「連取・茂呂村法蔵寺原争論始末書」∗6などにも、「退魔寺」と見える。
退魔寺と妖怪にまつわる伝説は、他に2つある。
(1-2) 〔光円橋と退魔寺〕
昔から橋銭ての取ってたんだね。お寺に石碑があるんだけどね。
(1-3) 〔三成とムカデ〕
昔、広瀬川の下に大きいムカデが出たんで、棺箱担いで橋の中央まで来ると、一天にわかにかき曇り、ムカデが出たんで棺をおっぽり投げて逃げた。それを聞いた石田三成がムカデを退治した。それで魔物を退治した寺という。退魔寺には石田三成が祀ってあり、紋が石田三成紋になっている(丸橋孝司)。〔伊勢崎市, 1987b, p.246〕
以上のとおり、退魔寺と妖怪にまつわる伝説は、(1)三成が妖怪を退治した、(1-2)寺僧が悪魔を退治した、(1-3)三成がムカデを退治したという3説がある。いずれも、退魔寺という寺号について、何者かが魔物を退治したことに由来するとしている。
あるいは、光円院から退魔寺へ改号した時期がはっきりしないために、本来は由来が別にあったものを、三成の妖怪退治や寺僧の悪魔退治といった伝承と混交して、三成の妖怪退治を寺号の由来とする伝説が創作され、定着してしまったのかもしれない。
ところで、退魔を冠する寺院は、退魔寺の他には、退魔山不退院大善寺(2)と、退魔山西正寺(3)がある。
大善寺は、神奈川県横浜市戸塚区に所在し、天正年間(1573-1592)の開創とも∗10、慶長年間(1596-1615)の創建ともいわれる∗11。
西正寺は、大阪府寝屋川市太間町に所在し、文明7年(1475)の開基といわれる∗12。「退魔山」という山号は1505年に得たとされ∗13、寺前(1980)は「この地のたいま〔太間のこと: 筆者註〕にもじっての称呼である」(寝屋川市, 1980, p.66)と述べている∗14。あわせて寺前は、西正寺を開基した順喜(茨田宗左衛門)の祖先・
寺前は西正寺の山号・退魔山を太間(たいま)と関連づけているが、退魔寺という寺号についても、当麻(たいま)などの古地名を受け継いだものという推測がある∗16。退魔寺も「タイマ」という音が先にあり、タイマ寺の由来説に三成などの妖怪退治が付け加えられたとき、「退魔」の字があてられたのかもしれない。
1. 徳永, 1981, pp.52-53
2. 人文社, 1979, p.60
3. 伊勢崎市, 1989, p.108
4. 光円坊が創建された年代についても「不明」(松井, 1971)であるが、「弘安四年〔1281〕」(伊豆, 1921, p.210)とする説がある。光円坊から改められた院号については「光円院」(徳永, 1981, p.53)の他に、「不動院金剛坊」(伊豆, 1921, p.210)とする説がある。「光円坊を改めて香華院として」(松井, 1971)という記述も見られるが、この場合の「香華院」は院号ではなく「先祖代々の墓がある寺」を意味しており、茂呂氏が光円坊を菩提寺にして先祖を供養したことをいっている。
5. 伊勢崎市, 1987a, pp.765-767
6. 伊勢崎市, 1989, p.28
7. 証文を包む別紙に「茂呂村証文 寛保二年戌十月廿二日」と書かれている。(橋田, 1967)
8. 光円橋という名称は、退魔寺を中興した光円坊・宥秀に由来し、架橋に退魔寺が関与していたことを示唆している(伊勢崎市, 1987b, p.245)。光円橋は名和・豊受への出入り口として重要視され(佐波郡, 1924, p.94)、橋を渡る者から金銭を徴収したこともあるようである。
9. 伊勢崎市, 1987b, p.245
10. 全日本仏教会, 1969
11. 寺院総覧編纂局, 1916, p.580
12. 井上, 1976, p.1198
13. 寝屋川市, 1980, p.66
14. 寺前は「魔を退けるとあるのは真宗寺院としては、ふさわしくない」(同前)とも指摘している。浄土真宗は霊魂や悪霊などの存在について否定的な立場をとっており、「魔を退ける」という言葉づかいが、教義と矛盾することを踏まえたものだろうか。
15. 同前
16. 群馬県, 1967, p.105
退魔という言葉について、Wikipediaの旧ページでは「日本語として不自然」と評価されていた。
第1章で言及した『塔中の怪』は押川(1940)による冒険小説であり、本作では、退魔という言葉が頻出する。とくに象徴的な場面を、2か所引用しよう。
〔第12回 白衣の道人〕
『それ怨霊は天地の気なり、すべて戌亥の空の果に集り、戌亥の方角より人間を襲ひきたる。(中略)その怨霊の通路なる、戌亥(西北)の山の頂に、もろもろの怨霊が、恐怖れ退くほどの、世にも物凄き形象を立てよ、これ我意に叶ふ、退魔の神法なり』〔押川, 1940, p.59〕
〔第13回 退魔の巨像〕
(前略)これぞ其昔銅爺王が、もろもろの怨霊を退けんがため、戌亥の方、此山の中腹に立てたる退魔の像、塔の祈祷の室の壁の面にぼんやりと現はれてをった彫刻の像を其のまま此山の中腹に、驚くべき巨大な銅の像となって立ってをるのである。〔前掲書, p.65〕
『塔中の怪』では、怨霊を退けるために使用された「退魔の神法」と、神法を行なうために建造された「退魔の像」が登場する。本作では、退魔という言葉は「怨霊を退ける」という意味で一貫している。
『大日本国語辞典』(1915-1919)によれば、怨霊は「怨みて祟りをなす死霊又は生霊」、魔物は「魔性のもの。ばけもの。へんげ。妖怪。妖魔。魔」であり、怨霊と魔物は別物のようにも思える。ただし、悪霊は「怨みある死人の魂が祟ること。怨霊。あくらう。もののけ」、物怪は「死霊・生霊などの祟ること。又、其の死霊・生霊など」と説明されており、怨霊は悪霊や物怪と同義である。また『日本類語大辞典』(1909)では、「魔物」と「物怪」は、いずれも「ばけもの」の類語とされている。
こうしたことを踏まえれば、退魔は「魔物を退く」とも「怨霊を退く」とも解釈できる。
以下には、1964年以前に発行された一般文芸などにおける、退魔の用例を列挙する。適宜解説を加え、当該部分には下線を付した。ただし、たとえば「退魔魅(まみをしりぞく)」(船越, 1901, p.365)のような、退魔を含むが「魔を退く」と読み下すことができない語は、取り上げなかった。
(1) 『玉葉 第三』〔文治4年9月16日条〕
雨脚止むと雖も、霄漢猶掩ひ風気疑ひあり。而るに夜より天快晴、終日雨脚降らず。誠にこれ上宮太子四大天王、同心合力、退魔守善の致す所なり。余払暁参会、先に当り要門内に於て、亀井の水を覧来たる例の如し。〔高橋, 1990, p.195〕
(2) 『奥羽観蹟聞老志 巻九』〔気僊郡 御崎神社〕
尾崎藪澤 本社を去ること十余町にして、一藪澤あり。(中略)澤上の山を称して、これを退魔山と謂う。〔佐久間, 1883〕〔筆者による書き下し〕
(3) 「茶店問答弁訛刮 末」
(前略)諸行摂機ノ来迎ハ。離障退魔ヲ所詮トスル也。〔妻木, 1913, p.173〕
来迎ハ。諸行雑業ノ人ヲオモニ助ケンカタメノ退魔除障ノ勝益ニテ。(後略)〔前掲書, p.174〕
(4) 「秋田事件裁判関係資料」〔(2)法定調書 柏木第六 明治15年6月1日訊問〕
答 警部ハ鉄砲ヲ買求メタル目的ヲ申述ヨト云ハレタルニ、元来、是レハ吉光吉蔵ヘ遊ヒニ行キ、図ラス鉄砲ヲ見付タルニ付、其価ヲ問ヒタル処、甚タ廉ナルニ因リ、世ニ伝フ、鉄砲ハ退魔ノ効験アリト、故ニ、之レヲ買求メ置キタルナレトモ(後略)〔手塚(1962), 1982, p.80〕
(5) 『菅公御一代記 下』〔七拾一天神尊号の事〕
除災退魔天神〔栄泉社, 1885, p.16〕
(6) 『女子の本分』〔15 女子と自然の感化力〕
彼女が成長せしドムレミーの村には、混々として湧出せる清泉あり。これより限りも知らぬ鬱蒼たる大森林広がり居りて、伝説によれば、そこには怪霊の一種が、常に出没するとの事にて、年に一度は必ず、僧侶の退魔祈祷を修せしと言ふ。〔ラスキン(1865), 下田, 1908, pp.91-92〕
(7) 『妹尾義郎日記(1)』
〔1910年1月8日〕
(前略)専ら精神奮起退魔の忠言、多謝々々。〔妹尾(1909-1918), 妹尾, 稲垣, 1974, p.103〕
〔同年1月14日〕
意気を以て退魔せよ。呑気にして治病をはかる第一也。(後略)〔前掲書, p.105〕
〔同年10月6日〕
(前略)現在に向って必ず奮起以て退魔すべしと、気長く永続するやうにと教えられたり。〔前掲書, p.148〕
〔1911年2月25日〕
(前略)退魔すべく最も力ある方策は正に自愛自考の処方に存する。自助天助、誠に然矣。〔前掲書, p.166〕
(8) 〔加賀美亀次郎回章〕
(前略)弊祖加賀美次郎信濃守源遠光朝臣ノ廟前ニ於テ夢ニ父祖並ニ祖ガ生前中宮中ニ妖有リ御詔命ヲ奉ジ退魔ノ功ヲ以テ賜ハリ南巨摩郡八日市場村大聖寺ニ奉安シアル三守皇不動明王尊ノ霊訓ニ基キ試験ノ上良好ナルヲ詔メ(後略)〔若草町, 1990, pp.1173-1175〕
(9) 「白狐の嬲り」〔第3章〕
「お前はとんでもない魔物に魅入られて居るぞ。(中略)儂から泰山の麓にお居でなさる劉仙道士に手紙を認めてやるから、それを持ってお訪ねをし、今までの事を詳しくお話をして見るがよい。道士は屹度、お前の為めに退魔の呪文をあげて呉れるであろう」〔米田, 1927, p.129〕
(10) 『江戸趣味 泥面譜(4)』〔31 破魔弓、羽子板、羽子〕
(前略)破魔弓はあの威かめしい弓で駆邪退魔するとの意である。〔首藤, 1929〕
(11) 『霊山碧水』〔六百年前満州遠征の偉人〕
謹で其像を拝するに、五体にして二体は身半ばなり、因て其由来を尋ねしに門徒等退魔の祈祷薬として毀削せしならむ嗟呼誠に惜むべきなり。〔太田, 1934, p.150〕
(12) 『亦川文叢』〔65 吉澤博士邸の梅苑に游ぶ〕
(前略)十徳に宗匠頭巾、退魔棒と銘打ったる竹の杖を突いたところは天晴れ梅見の扮装なり。〔矢沢, 1939, p.189〕
(13) 『国史辞典(1)』〔あんたく 安宅〕
〔朝鮮〕一家の災厄を祓ふために行ふ祈禳祭で、今なほ全鮮到る所に行はれる。(中略)並に授福・退魔・逐鬼などの行事を併せ行ふ。〔富山房, 1940, pp.263-264〕
(14) 『東奥年鑑 昭和15年』〔「学芸出版」美術 本県美術家の各展覧会出品並入選〕
第九回日本木彫会展 中野桂樹「幽庭」「肖像」「退魔」〔柿崎, 1940, p.398〕
(15) 「春の年中行事」〔五月五日〕
(前略)この日に不老延年、除災退魔の霊力を持つ薬草と信じられた菖蒲やよもぎを酒にひたしたり、湯で煎じたり、また、餅についたりして服用する風はこの中国の習慣の移入と思われる。〔樋口, 1954〕
以上のとおり、一般文芸などにおける退魔という言葉の用例は、12世紀の『玉葉』(1)までさかのぼる。また小説(5, 9)や日記(7)、随筆(12)、紀行文(11)、辞典(13)や学術的文章(6, 10, 15)、裁判資料(4)、行政への回覧文書(8)、彫刻のタイトル(14)でも、退魔が使用されている。また、退魔山(2)という地名も存在する。こうしたことから、退魔についての「日本語として不自然」というWikipediaの旧ページでの評価は、妥当ではないと考えられる。
また、浄土真宗による浄土宗への反論書(3)でも、退魔という言葉が使われていることから、退魔は仏教語としても不自然ではないと考えられる。
さらに、裁判資料(4)で「世に伝う、鉄砲は退魔の効験ありと」と陳述され、『妹尾義郎日記』(7)で動詞「退魔す」や命令形「退魔せよ」が使われているのも興味深い。
1. 宮城県, 1973, p.268
2. 長沼, 1983, p.25
3. 『女子の本文』は『Sesame and Lilies』の第2部「Lilies. of Queens’ gardens」を意訳、補修したものである。(ラスキン(1865), 下田, 1908, ラスキンの経歴及び事業)
4. ラスキン(1865), 栗原, 1918, p.153
5. 豊田, 1964
退魔という言葉は、「魔を退く」と読み下すことができる。魔を退くという言い回しについて、Wikipediaの旧ページでは「日本語として不自然」と評価されていた。
しかし『講談社古語辞典』によれば、「魔」は魔羅の略であり「人命を害し、人の善事を妨害するもの」を意味し、他動詞の「退く」は「後ろへ下がらせる」や「遠ざける。避ける」を意味する。魔を退くを「人命を害するものを後ろへ下がらせる」や「善事を妨害するものを遠ざける」と現代語訳しても、意味は通るし、違和感も無い。
ほんとうに、魔を退くという言い回しは、日本語として不自然なのだろうか。
以下には、1964年以前における、魔を退くという言い回しの用例を列挙する。適宜解説を加え、当該部分には下線を付した。なお、魔を退くという言い回しの他に「魔を退くる」「魔を退ける」なども取り上げた。
(1) 『明良洪範続篇 巻十一』
増誉曰射芸に通ぜずとも弓矢の実理に通じ徳遠く四民に及ぶ(中略)故に上杉謙信平家を語られて古へ義家朝臣は鳴絃して魔を退け賴政は鶴を射て落し又井の早太が九刀刺て殺せし事は義家と時代さのみ遠からずと云ども弓矢の勝利衰たる事知るべしと哀み玉へり〔真田, 早川, 1912, p.486〕
(2) 『安斉随筆 巻二十四』〔犬張子の事〕
(前略)犬張子を小兒の傍におくもこの狛犬を置かるる心なり犬は魔を退くるものなるゆゑなり〔伊勢, 今泉, 1899-1906, p.793〕
(3) 「美少年」
一、猛烈勇敢。
善に進むは駿馬の空を飛ぶ如く、魔を退くるは神将の令を行ふやうにて、常に火焔天を焦す気概を有せる。〔幸田(1890), 1953, p.234〕
(4) 「蠅を憎む記」〔下〕
(前略)そよそよと起る風の筋は、仏の御加護、おのづから、魔を退くる法に合って、蠅の同勢は漂ひ流れ、泳ぐが如くに、むらむらと散った。〔泉(1901), 1941, p.657〕
(5) 『国史大辞典』〔イヌハリコ 犬張子〕
犬の形せる箱をいふ、「イヌバコ」ともいふ、産屋に用ひ小児の傍に置く、魔を退くる為めなりといふ〔萩野, 八代, 早川, 井野辺, 1908〕
(6) 「風姿花伝 第四 神儀云」〔転法輪〕
説教のことを云ふ。(中略)面白をかしき言動がそのままに衆生済度の仏の本意に叶ひ、説法をなすと同様の効力ありて、魔を退け福を招くものぞといふのである。〔吉田, 鈴木, 山崎, 池内, 1911〕
(7) 「子供の背守と猿」
その形は現行のものは一二寸くらいのもので、意匠の材料は多く桃の実または猿などである。桃は魔を退くるものであること、古くから信ぜられていた故に、背守の意匠これに出ずること疑いなく、王母の桃や桃太郎の桃ではないらしい。〔胡桃沢(1915), 1956, p.105〕
(8) 「法華」〔日蓮主義者の自警〕
(前略)日蓮主義は成仏の直道である。けれども好事魔多く、信ずるには、いろいろの魔が生起するものなるが故に、その魔を退けて、正信に入るやう努力しなければならぬ。〔田中, 1922〕
(9) 「アラッディンの話 一名不思議のランプ」〔第22〕
アラッディンが斯うして王との第一回の会見の準備を調へた時に、魔を退かせて、直ぐ例の名馬に乗って行進を始めた。(後略)〔中村, 1928, p.227〕
(10) 「犬に関する伝説と民俗(1)」〔犬に関する土俗玩具〕
(前略)此の中最も傑出したものは犬張子であらう、(中略)これを小児の傍に置くのもコマ犬の魔を退くと同意であるといふ。〔永井, 1930〕
(11) 「笑ひの祭儀と神話」
アイヌ人は、女は、春と関係あるといってをる。女性は、おそらく豊沃を象徴するものであらう。その胸乳を露したり、陰所を示すことによって、冬の魔を退けることが出来るのである。〔松本, 1931〕
(12) 「白花の朝顏」〔第4章〕
手を触れてゐて、肌をいふ。大森彦七は胸が唸った。魔を退けうと太刀の柄……
(13) 『俚諺大辞典』〔急々如律令〕
邪道を修する者を誡めて正道に帰せしむるの意にして、魔を退くる為めに唱ふる呪文をいふ。手を触れてゐて、肌をいふ。〔中野, 1933, p.262〕
(14) 『日本文学大辞典(3)』〔発心集 ほっしんしふ〕
巻四の或る女房が臨終に魔変を見る説話の如きは、導師に依って魔を退け、往生を遂げてゐる。〔藤村, 1934〕
(15) 『古代伝承研究』〔8 八岐の大蛇 下〕
(前略)蛇を退治する話には魔を退けるといふ外に穀神を殺すといふことがあるであらう。これは書記の一書にある保食神の話から考へられる。(後略)〔肥後, 1938, p.268〕
(16) 『新訳 西遊記』〔第4 金角銀角 (10)国王の霊〕
『これから夜遊神に頼んで皇宮へ行き、皇后の夢想に立って、太子と意を合せて魔を退けるやうに言聞かせて置きませう。』〔中島, 1938, pp.209-210〕
(17) 『平安時代の風俗』〔家具調度 几帳〕
(前略)柱には病を除く犀角と、魔を退ける八稜鏡をさげ、正面左右には獅子と狛犬を置くのである。〔長谷, 1954, p.18〕
(18) 『新言海』〔いぬ 犬〕
(古くから犬は物怪や魔を退けると考えられて、幼児の額に犬の字を書く。また子供を守るものとして犬箱・犬張子を置く)〔大槻, 大槻, 1959〕
(19) 『日本古典文学大系(50) 近松浄瑠璃集(下)』〔平家女護嶋 頭註〕
飛ぶ時音を発するようにした矢。魔を退ける時などに用いる。〔守隨, 大久保, 1959, p.345〕
(20) 『日本文学全集(33)』〔上林暁集「安住の家」注解〕
中国で疫病を除き魔を退けるという神。唐の玄宗の夢に現われ邪鬼を払ったという。〔新潮社, 1963, p.471〕
以上のとおり、魔を退くという言い回しは、日本語として意味が通じるうえに、用例は18世紀の『明良洪範続篇』(1)までさかのぼる。また、幸田露伴(3)や泉鏡花(4、12)といった文豪も使用しており、その他の小説(9、16)や随筆(2)、辞典(5, 13, 14, 18)、学術的文章(6, 10, 11, 15, 17, 19, 20)でも使われている。こうしたことから、魔を退くという言い回しについての「日本語として不自然」というWikipediaの旧ページでの評価は、妥当ではないと考えられる。
また、仏教系文化誌である「法華」(8)でも使われていることから、魔を退くという言い回しは、仏教語としても不自然ではないと考えられる。
1. 胡桃沢, 1956, p.105
これまで、退魔という言葉と、魔を退くという言い回しについて検証してきた。その過程で、退魔を動詞化した「退魔す」という言い回しが使用されていたことが分かった。
本稿の結論を述べる前に、本章で、動詞「退魔す」について分析しておきたい。
退魔すは、漢語「退魔」にサ変動詞「す」が付いた複合動詞であり、本稿では2例を取り上げた。
「長源寺伝」(2-4)では、「退魔せん」が使用されていた。古形は「退魔せむ」である。動詞「退魔す」の未然形「退魔せ」に、助動詞「む」を接続した意思形動詞であり、「退魔しよう」という意味である。「長源寺伝」では、人が立ち入いれば命を落とすという魔境に、救蟹が「退魔しよう」と踏み入って、大蟹の化物を退治したとされる。魔境は「魔物や悪魔がいる場所」を意味し、ここでの「退魔す」は「魔物や悪魔を退治する」という意味である。
妹尾(4-7)は、動詞「退魔す」∗1∗2や、命令形「退魔せよ」∗3を使用していた。妹尾は、学生時代に結核や胃腸疾患にかかり∗4、生涯にわたって療養と闘病の日々を送った∗5。ここでの「退魔す」は、もっぱら「病魔を退治する」という意味で使われている。病魔は「魔」の類語である。
漢語がサ変動詞化する場合、その漢語は、動作性の意味が強く、当時の人々が表現語彙として使用していたと推測できる∗6∗7。
退魔は「魔物を後ろへ下がらせる」や「悪霊を遠ざける」といった意味であり、動作性が強い言葉である。また柏木(4-4)は、友人から鉄砲を買い取った理由について「世に伝う、鉄砲は退魔の効験ありと」と述べていた。こうしたことから、明治期には「鉄砲に退魔の効験がある」という言説が世間にひろく知られており、退魔という言葉も人々のあいだで通用していたと考えられる。
しかし、筆者が推測したとおり、退魔という言葉がサ変動詞化するほどに人々のあいだで定着していたならば、なぜ退魔という言葉は、主要な国語辞典に記載されていないのだろうか。
たとえば日本初の近代的国語辞典『言海』(1889)では、「降魔」が見出し語にされており、「魔を駆る」∗8や「魔を除く」∗9という言い回しも使われている。その一方で、「退魔」や「魔を退く」は見当たらない。1882年までに「鉄砲に退魔の効験がある」という言説が流布し、退魔がサ変動詞化して、1904年から1911年にかけて、退魔すという言い回しが使われていたのなら、「退魔す」はともかく、「退魔」が『言海』に記載されていないのは違和感がある。
だが実際には、『言海』にもその他の国語辞典にも、「退魔」は記載されていない。むしろ、柏木が言うほどには「鉄砲に退魔の効験がある」という観念は一般的ではなかったし、妹尾らが使った「退魔」も「退魔す」も、辞典に載せるほどには人々のあいだで定着していなかったと考えた方が、自然かもしれない。
こうしたことから、「退魔という言葉は、サ変動詞化するほどに、明治期の人々によって広く使用されていた」という筆者の推測は、説得力を欠く。∗10
1. 妹尾ら, 1974, p.148
2. 前掲書, p.166
3. 前掲書, p.105
4. 前掲書, p.434
5. 前掲書, p.445
6. 坂詰, 1980
7. 「退魔結界し」(東京毎夕新聞社, 1934, p.35)や、「駆邪退魔する」(首藤, 1929)も、漢語が動詞化した事例と考えることができる。
8. 「魔ヲ駆ル語」(急急如律令)、「魔ヲ駆ルトス」(鍾馗)(大槻, 1889)
9. 「魔ヲ除クトテ」(振振毬杖)、「神符ナドノ魔ヲ除クルモノ」(魔除)(同前)
10. 他方、「道中す」「模様す」「腹痛す」のように、かつてサ変動詞化したものの、現代語としてはサ変動詞化が行なわれなくなった漢語もある(深井, 水持, 1988)。「退魔す」についても、いちどサ変動詞化し、サ変動詞化しなくなり、あるいは死語化し、また使われだしてサ変動詞化するという、複雑な変遷をたどっている可能性が考えられる。
これまで、豊田(1969)による造語とみなされ、仏教語として、あるいは日本語として不自然と評価されてきた「退魔」という言葉と、「魔を退く」という言い回しについて、より古い時代の用例を探りつつ、仏教語として、日本語として不自然であるかを検証してきた。
結果、仏典などにおける退魔の用例については、7世紀の『宝星陀羅尼経』(2-1)までさかのぼることができた。また、仏教説話集(2-2, 3)や寺伝(2-4, 5)でも、退魔という言葉が使用されていることを確認した。さらに、寺号や山号に退魔を含む寺院(3-1, 2, 3)があることを確認し、いずれの寺号・山号も16世紀頃には使用されていたと考えられることが分かった。
一般文芸などにおける退魔の用例については、12世紀の『玉葉』(4-1)までさかのぼることができた。また、小説(4-5, 9)や日記(4-7)、随筆(4-12)、辞典(4-13)や学術的文章(4-6など)、裁判資料(4-4)、行政への回覧文書(4-8)、地名(4-2)、彫刻のタイトル(4-14)、さらに仏教関係文書(4-3)でも、退魔が使われていることを確認した。
魔を退くの用例については、18世紀の『明良洪範続篇』(5-1)までさかのぼることができた。また、幸田露伴(5-3)や泉鏡花(5-4, 12)といった文豪も、魔を退くという言い回しを使用していたこと、その他の小説(5-9, 16)や随筆(5-2)、辞典(5-5など)、学術的文章(5-6など)、さらに仏教系文化誌(5-8)でも、魔を退くが使われていることを確認した。
こうしたことから、退魔という言葉も、魔を退くという言い回しも、豊田が『退魔戦記』を発表する遥か昔から使用されてきた古語であることが分かった。また、退魔と、魔を退くは、仏教語としても日本語としても不自然ではないことを指摘した。
さらに、退魔がサ変動詞化した「退魔す」が使用されている事例(2-4, 4-7)も確認した。あわせて、漢語がサ変動詞化する場合、その漢語は動作性が強いうえに、当時の人々が表現語彙として使用していたと推測できることから、退魔という言葉が、明治期の人々のあいだで通用していた可能性があることを指摘した。
序章でも言及したとおり、豊田は「退魔」という言葉について、豊田自身の造語であると認識していたらしく、(もちろん冗談半分だろうが)なんらかの権利を主張できるとも考えていたようである∗1。しかし本稿で明らかにしたように、退魔は古語であり、その用例は、漢訳の仏典については7世紀、和書に限定しても12世紀までさかのぼる。
こうしたことから、退魔が豊田の造語であるというのは、豊田自身の誤認だったと思われる。
ところで、豊田の出身地は群馬県前橋市であり∗2、前橋市は、退魔寺が所在する伊勢崎市と隣同士である。おそらく豊田は、自分の故郷の隣町に退魔寺という寺があることを知らなかったのだろう。もし知っていれば、退魔は自身の造語であるという考えに、疑問を抱いたはずである。
同じように、豊田は、小説『塔中の怪』(押川, 1940)やその他の様々な小説や古典などで、退魔という言葉が使用されていたことを、知らなかったのだろう。知っていれば、退魔について何らかの権利を主張するのは、無理があると気づいたはずである。
豊田は、仏典や仏教説話集などで退魔という言葉が使用されていたことも、知らなかったのだろう。知っていれば、退魔や、魔を退くという言い回しが、仏教語として不自然だとは考えなかったはずである。
豊田が自身の造語だと考えていた退魔という言葉は、実際には、昔から使われていた古語だった。
もちろん、合成語「退魔船」と「タイムマシン」を結びつけたのが豊田独自のアイデアであることは、議論の余地が無いだろう。しかし、退魔と別語を組み合わせて合成語を作り出すというアイデアそのものは、矢沢(1939)による「退魔棒」という前例がある。あるいは「退魔寺」や「退魔山」も、こうした合成語の類と考えることができる。
小説などの創作において、どれほど独創的でどれほど個性的なアイデアを考えついたとしても、たいていの場合は、同じか、よく似たアイデアを先人がすでに生み出し、世に出しているものである。豊田と「退魔」のかかわりは、あるアイデアについて「それは自分が最初に考え出した」と主張することの危うさを示唆しているように、筆者は感じるのである。
1. 芦辺, 2012.1.29, https://x.com/ashibetaku/status/27306614537(2025.10.14)
2. 日本SF作家クラブ, 2013, p.52
2025.10.15
参考文献
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