【三】記紀を読み比ベて、武甕槌神を分析する
武甕槌神は、古事記と日本書紀のどちらにも登場する。
タケミカヅチという神名を解すれば、タケは武、ミカはミイカの約(ミは神のもの又は神の行為を表わす接頭語、イカは厳)、ヅは助詞、チは威勢あるものを意味し、イカヅチは電光のことで、剣を連想させる∗1。タケミカヅチは、古事記では建御雷神または建御雷之男神と表記され、日本書紀神武紀でも武甕雷神と表記されており、いずれも雷との関連性を示唆している。
武甕槌神は剣神であり、建御名方神や経津主神と並ぶ武神であり、また電光を司る雷神なのである。
なお、日本書紀は「今在于東国檝取之地也」、古事記は「到科野国之州羽海」という具合に、それぞれ経津主神と香取神宮、建御名方神と諏訪大社との関係を示唆しているが、武甕槌神と鹿島神宮の関係については、記紀のどちらも触れていない。風土記にも記載が見当たらない∗2。『古語拾遺』の「武甕槌神、是甕速日神之子、今常陸国鹿島神是也」という記述で∗3、武甕槌神と、茨城県鹿嶋市にある鹿島神宮とが、初めて結びつくのである∗4。
さらに考察を深めるため、記紀の内容をくわしく比較していく。
1)武甕槌神は誰の子か
日本書紀第5段第6の一書は、武甕槌神は、伊弉諾尊が火神を斬り殺したとき剣の鍔からしたたり落ちた血から生まれた甕速日神と熯速日神のうち、甕速日神の子孫であるとしている。
また紀第9段本文は、武甕槌神は、稜威雄走神の曾孫であり、甕速日神の孫であり、熯速日神の子であるとしている。稜威雄走神は、伊弉諾尊が火神を斬り殺したときに生まれた神であり∗5、古事記に登場する、伊弉諾尊が火神を斬り殺したときに用いた剣・天之尾羽張を神格化した伊都之尾羽張神と同一視される∗6。
古事記の火神殺害の場面では、剣からしたたり落ちた血から、甕速日神と樋速日神(熯速日神)と武甕槌神が次々に生まれたとされている。
古事記の当該場面を引用する。
ここに伊邪那岐命、御佩かせる十拳の剣を抜き、其の子迦具土神の頸を斬りたまふ。しかして其の御刀の前に着ける血、湯津石村に走り就き成れる神の名は、石拆神。次に根拆神。次に石筒之男神。三の神。次に御刀の本に着ける血も、湯津石村に走り就き成れる神の名は、甕速日神。次に樋速日神。次に建御雷之男神、またの名は建布都神、またの名は豊布都神。三の神。次に御刀の手上に集まれる血、手俣より漏き出で成れる神の名は、闇淤加美神。次に闇御津羽神。
上の件、石拆神より以下、闇御津羽神より以前、并せて八の神は、御刀に因り生れし神ぞ。
〔『新版 古事記 現代語訳付き』, p.31〕
甕速日神と熯速日神と武甕槌神は、日本書紀第9段本文では祖父・父・子という間柄だったが、古事記では、いちどに生まれた兄弟という位置づけのようである。また武甕槌神には、建布都神と豊布都神という別名があるとしている。
さらに、古事記が伝える国譲りの場面では、武甕槌神は、伊都之尾羽張神の子であると説明されている。この伊都之尾羽張神は、先述したとおり、伊弉諾尊が火神を殺害するときに用いた剣・天之尾羽張を神格化したものであり、日本書紀に登場する稜威雄走神と同一視される。ちなみに、この神名を古事記では「イツノヲハハリ」、日本書紀では「イツノヲハシリ」と訓むが、ヲハシリは刀剣を鍛造するときに閃光が走る様子を意味し、ヲハハリは誤写であると推測される∗5。
このように武甕槌神の系譜について、紀第9段本文は「稜威雄走神の曾孫であり、甕速日神の孫であり、熯速日神の子である」としており、古事記は「稜威雄走神の子である」としている。日本書紀が武甕槌神を剣神・稜威雄走神の曾孫としているのに対して、古事記は息子としており、世代に差がある。しかし、武甕槌神が剣神の子孫であることは共通している。
話は変わるが、経津主神が古事記でどう扱われているかについても、ここで言及しておきたい。
日本書紀第5段第6の一書は、火神の血から生じた五百箇磐石の子孫が、経津主神であるとしていた。紀第5段第7の一書は、火神の血がふりかかった五百箇磐石から磐裂神と根裂神が生まれ、磐裂神と根裂神が磐筒男神と磐筒女神を生み、磐筒男神と磐筒女神が経津主神を生んだとしていた。
しかし古事記は、火神の血がふりかかった五百箇磐石(湯津石村)から磐裂神(石拆神)と根裂神(根拆神)と磐筒男神(石筒之男神)が生まれたところで、記述を打ち止めている。日本書紀で磐筒男神が生んだとされていた経津主神は、古事記では存在が完全に無視され、系譜が途切れているのである。
興味を引かれるのは、日本書紀第5段第6の一書では「火神の血がしたたり落ちて生まれた甕速日神と熯速日神のうち、甕速日神の子孫が武甕槌神である」とされていたのに対して、古事記は「火神の血が五百箇磐石にふりかかって生まれたのが、甕速日神と熯速日神と武甕槌神である」としていることである。
日本書紀は、武甕槌神は火神の血から生まれた神々の子孫としていたが、古事記では、経津主神と同じように、火神の血から生じた五百箇磐石の子孫とされ、世代がひとつ挟み込まれているように読めるのである。
2)武甕槌神の地位
日本書紀第9段本文では、地上を平定するために派遣する軍神として、まず経津主神ひとりが選ばれた。そのことを不満に思った武甕槌神が異議を申し立て、いわば割り込むようにして経津主神の副官となり、経津主神と武甕槌神のふたりが地上に派遣されることになった。どうやら武甕槌神は、経津主神よりも一段低い扱いを受けていたようである。
紀第9段第1の一書では、武甕槌神と経津主神のどちらが副官とは書かれておらず、同格として扱われているようにも読める。
紀第9段第2の一書では、経津主神が斎主を務める描写がある。斎主とは、戦争に際して神祇を斎い祭る者のことであり、軍旅の主将が祭主を務める∗7。ここでも本文と同じく、経津主神が主将として扱われ、武甕槌神が副将として扱われていると考えられる。さらに第2の一書では、大己貴神がいちど交渉を拒絶したとき、経津主神が天上に戻って、命令者である高皇産霊尊に事態を報告している。また経津主神は、大己貴神との交渉を終えたあと、岐神を先導として国内を巡り、逆らう者たちを誅伐してまわった。
地上を平定するために、もっぱら経津主神が主体となって動き回っており、武甕槌神はひたすら影が薄い。
しかし古事記の国譲りの場面では、一転して、武甕槌神が主役に躍り出る。
天照大神は、長男である天忍穗耳尊に地上を統治させたいと考え、まず次男である天菩比神(天穗日命)を、つづいて天若日子を地上に派遣した。しかし、ふたりとも地上を支配する大国主神(大己貴神)の側に寝返ってしまい、報告は上がってこず、ふたりが天上に帰還する様子も無い。
そこで神々は、地上に派遣する3人目の神を誰にするか話し合い、伊都之尾羽張神を派遣することにする。伊都之尾羽張神は別名を天尾羽張神といい、日本書紀に登場する稜威雄走神と同一視される。
ここに天照大御神詔りたまはく、「またいづれの神を遣はさば吉けむ」とのりたまふ。しかして思金神と諸神たち白さく、「天の安河の河上の天の石屋に坐す、名は伊都之尾羽張神、これ遣はすベし。もしまたこの神に非ずは、その神の子・建御雷之男神、これ遣はすベし。またその天尾羽張神は、逆に天の安河の水を塞き上げて、道を塞ヘ居り。かれ他し神はえ行かじ。かれ別に天迦久神を遣はして問ふベし」とまをす。かれ天迦久神を使はし、天尾羽張神を問ひたまふ時に答ヘ白さく、「かしこし、仕ヘ奉らむ。然れども此の道には、僕が子、建御雷神を遣はすベし」とまをすすなはちたてまつる。しかして天鳥船神を建御雷神に副ヘて遣はす。
〔『新版 古事記 現代語訳付き』, pp.70-71〕
神々は、地上に派遣する第一候補として伊都之尾羽張神(稜威雄走神)を、第二候補として稜威雄走神の子である建御雷神(武甕槌神)を選んだ。そこで使者をやって、稜威雄走神に地上を平定するよう打診したのだが、稜威雄走神は「武甕槌神を派遣すベきです」と辞退し、かわりに息子である武甕槌神を推薦する。
稜威雄走神からの推薦を受けて、また、もともと第二候補として名が挙がっていたこともあって、神々は、武甕槌神を地上ヘ派遣することを決める。そうして地上に派遣された武甕槌神は、天鳥船神を副官として従えながら、大国主神との交渉にのぞみ、反抗してきた建御名方神を打ち倒し、大国主神から地上の支配権を奪ったのだった。
このように古事記では、武甕槌神は地上を平定した立役者として、おおいに活躍している。
もともと地上に派遣する候補にすら上がらないでカヤの外だったうえ、地上に派遣されたあとも経津主神の副官として影が薄いままだった日本書紀とは、大違いである。
ところで古事記は、火神殺害の場面で武甕槌神の出生について語ったとき、武甕槌神の別称として「建布都神」と「豊布都神」を挙げていた。どちらも神名に「フツ」を含んでおり、あきらかに経津主神と関連している。
また古事記と日本書紀は、窮地に陥った神武天皇を救うために、武甕槌神が剣を下すエピソードを伝えている。このとき下した霊剣の名を韴霊(フツノミタマ)といい、これも「フツ」を含んでいる。経津主神と武甕槌神の、主将と副将という立場を超えた、より強い関係性を示唆している。
3)武甕槌神が下した韴霊とは何なのか
先述したとおり、古事記と日本書紀は、熊野にやってきた神武天皇が進退きわまったとき、天皇を救うために武甕槌神が霊剣を下したエピソードを伝えている。
記紀で多少の違いはあるものの、おおまかな内容は同じなので、以下のとおり、日本書紀から当該場面を引用する。
時に彼処に人あり、号を熊野の高倉下と曰ふ。たちまちに夜夢みらく、天照大神、武甕雷神にかたりて曰はく、「それ葦原中国は、なほ聞喧擾之響焉(聞喧擾之響焉、此をば「さやげりなり」と云ふ)。汝また往きて征て」とのたまふ。武甕雷神こたヘて曰さく、「予、行らずと雖も、予が国を平けし剣を下さば、国おのづからに平けなむ」とまうす。天照大神の曰はく、「諾なり(諾、此をば「うベなり」と云ふ)」とのたまふ。時に武甕雷神、すなはち高倉下にかたりて曰はく、「予が剣、号を韴霊と曰ふ(韴霊、此をば「ふつのみたま」と云ふ)。今まさに汝が庫のうちに置かむ。取りて天孫に献れ」とのたまふ。高倉下、「をを」と曰すとみてさめぬ。明旦に、夢の中の教に依りて、庫を開きて視るに、はたして落ちたる剣ありて、さかしまに庫の底板に立てり。すなはち取りてたてまつる。
〔『日本書紀(一)』, pp208-210〕
日本書紀は、「韴霊」は、武甕雷神(武甕槌神)が地上を平定するときに用いた剣であるとしている。剣の「フツノミタマ」という名は、「経津主神の御魂」を意味していると思われ、経津主神との強い関係性をうかがわせる。
古事記は、剣の名は「佐士布都神」又は「甕布都神」又は「布都御魂」であるとしている。すベての名に「フツ」を含んでおり、やはり経津主神との強い関係性を示唆している。また「この刀は、石上神宮に坐す」とも補足しており、奈良県天理市にある石上神宮の縁起に言及している。石上神宮の祭神は布都御魂大神であり、その御神体は布都御魂剣(ふつのみたまのつるぎ)とされる。
さらに『先代旧事本紀』「天孫本紀」は、韴霊の別名として「布都主神魂刀(ふつぬしのかみのみたまのつるぎ)」、「佐士布都」、「建布都」、「豊布都神」を挙げている∗8。
ひとつずつ検証していこう。
日本書紀の韴霊はフツノミタマと訓み、古事記の布都御魂と同音である。いずれも「経津主神の御魂」を意味すると推測でき、旧事本紀は、ずばり「布都主神魂刀」という別名を記載している。フツノミタマとは、フツヌシノミタマまたはフツヌシノカミノミタマのことであり、経津主神の御魂の意であろう。
古事記の佐士布都神と、旧事本紀の佐士布都は、ともに「フツ」を含む。「佐士(さじ)」が何を意味するのかは判然としないが、「刺し」の義であるとも∗9、小刀を意味する「佐比(さひ)」に通じるともいわれる∗10。いずれにしても、刀剣にまつわる神名であると推測できる。
甕布都神は「ミカ」と「フツ」を含み、武甕槌神と経津主神との関連を示唆している。「ミカ」はミイカ(御威)の約であり∗11、「フツ」と合わせて、剣の威力と切断音を表わすと解釈できる。
旧事本紀の建布都と豊布都神も「フツ」を含み、古事記が武甕槌神の別名として挙げていた建布都神と豊布都神に通じる。これらの名も、やはり剣の威力と切断音を表わすと解釈できる∗11。
以上のとおり、武甕槌神が持つ剣の、韴霊などの名称・別称はすベて「フツ」を含んでおり、経津主神との関係性を強く示唆している。また甕布都神や豊布都神などのように、剣の持ち主である武甕槌神と、剣あるいは経津主神とを、混同または同一視しているような名称もある。
1. 坂本, 1994, p.43
2. いちおう常陸国風土記には「自高天原降来大神、名称香島天之大神、天則号曰香島之宮、地則名豊香嶋之宮」という記述があり、香島天之大神という神の来歴と、香島の宮(鹿島神宮)の縁起について言及されている。しかし、この香島天之大神と武甕槌神の関係性は分からない。
3. 塙, 1901, p.4
4. 吉井, 1976, pp.42-43
5. 坂本, 1994, pp.116-119
6. 中村, 2009, p.70
7. 坂本, 1994, p.137
8. 経済雑誌社, 1898, pp.262-263
9. 中村, 1882, p.475
10. 井乃, 1939, p.146
11. 中村, 2009, p.31
【四】武甕槌神と経津主神は、別神か同一神か
前段で、神武天皇を救うために武甕槌神が下した霊剣・韴霊(フツノミタマ)の名が、「経津主神の御魂」と解釈できることを確認した。また、韴霊の別名には、剣の持ち主である武甕槌神と、剣あるいは経津主神とを混同しているような名が複数あることを確認した。
これらの事実を踏まえて、多くの研究者は、経津主神は、韴霊を神格化したものであり、元来は、剣の持ち主である武甕槌神と同一神だったと考察している。∗1
本居宣長は、経津主神が古事記に登場しないことに加え、藤原良継が病んだ宝亀8年に、武甕槌神を祀る鹿島神宮が正三位、経津主神を祀る香取神宮がそれより下の正四位上に叙されている∗2ことを指摘したうえで、日本書紀は、経津主神を大将とし、武甕槌神をそれより下の副将としており、二神の上下関係が逆転していると批判している。そのため、日本書紀が伝える経津主神にまつわるエピソードは根拠が無く、経津主神はあくまで武甕槌神の別名であって、二神は同一神であると断定している。また、経津主神という名は、武甕槌神が所持する剣・韴霊から出たものとしている。∗3
和歌森太郎は、武甕槌神はもともと雷を神格化したものであり、雷光から刀剣が連想されることで強武なる天神ヘと変貌し、経津主神とともに崇拝されるに至ったとしている。∗4
三品彰英は、雷神である武甕槌神がさかさに立てた剣の先に胡坐をかいて座る様子を、雷光を司る自然神としての武甕槌神と、電光を表徴する霊剣としての韴霊とに関連づけながら、武甕槌神と経津主神を同一神と見なしている。∗5
一方で、武甕槌神と経津主神は別神であるとする研究者もいる。
田中義能は、本居宣長に反論する形で、天照大神を命令者とする日本書紀第9段第1の一書が、二神を「武甕槌神及び経津主神」という順序で書き出していることに着目し、この一書が、武甕槌神を大将とし、経津主神を副将とする伝承である可能性を指摘している。このことを踏まえて、紀第9段第1の一書とおなじく天照大神を命令者とする古事記で経津主神が登場しないのは、副将である経津主神が省略されたからであると推測し、武甕槌神と経津主神はそれぞれ存在が確立された別神であると結論づけている。∗6
吉井巌は、剣を尊んだ「布都御魂」という呼び名から佐士布都神、甕布都神、普都大神へと次第に人格神として名称をととのえ、紀において経津主神なる名称が新たに与えられたと推測しつつ∗7∗8、物部氏が伝承してきた経津主神の役割を、藤原氏の氏神である武甕槌神が入れかわり引きついだとしている∗9。また、経津主神は、出雲、常陸、肥前の風土記に登場することから、剣神として地方にも広く知られていた一方で、武甕槌神は風土記に見当たらず、軍神として語られるのは記紀のみであると指摘している∗10。さらに、タケミカヅチという神名に含まれる「ミカ」が土器や容器を意味することを踏まえて∗11、武甕槌神はもともと軍神ではなく、成型した粘土を火で焼くことでつくられる、土器にまつわる甕の神であったと推定している∗12。あわせて、経津主神についても、岩根を焼き砕く火焔と、石から鉄を取り出す精錬技術に関連する∗13、赤い鉄鉱石から生まれた剣神であると想定している∗14∗15。
このように、武甕槌神と経津主神が別神か同一神かについては、近世以来さまざまな研究家のあいだで論争が繰り返されてきたものの∗16、現在にいたるまで、一致した定説は確立していない。
それでも、もし経津主神と武甕槌神を同一神として、経津主神が武甕槌神から分化したと仮定すると、日本書紀の記述から導き出される「五百箇磐石-磐裂神根裂神-磐筒男神磐筒女神-経津主神」と「稜威雄走神-甕速日神-熯速日神-武甕槌神」という、4世代にわたる二神の系譜が、詳細に過ぎ、あまりに手が込んでいると感じる。経津主神が、武甕槌神から分化した、いわばポッと出の神であるならば、紀に記載されている経津主神の系譜はもっと単純か、いっそ無くてもおかしくないように思われる。紀第5段第6の一書でごていねいに経津主神と武甕槌神の系譜を併記しておいて、第7の一書でわざわざ武甕槌神を無視している意図も分からない。
その一方で、経津主神と武甕槌神は別神であり、さらに武甕槌神よりも経津主神の方がより古い神格であるとすると、経津主神の系譜のみ記述しされている紀第5段第7の一書と、経津主神だけでなく武甕槌神の系譜についても記述されている第6の一書とが、整理されて第9段本文に統合され、古事記では逆に、五百箇磐石の系譜から経津主神が省略され、武甕槌神の系譜についてのみ詳しく記述されるようになったという、記紀編纂の過程における内容の変遷を想定できるように思う。こちらの方が、まだ流れが自然ではないだろうか。
そうして先賢の論説を踏まえつつ、筆者が考察を述ベるなら、経津主神と武甕槌神は、やはり別神であると思われる。
経津主神を、霊剣・韴霊を神格化したものとする説には、異論は無い。
まず、神武天皇を救った霊剣・韴霊にまつわる伝承が存在し、韴霊を人格神化した経津主神が生まれ、鎮護と国防を司る剣神として、国内で広く信仰されるようになった。そして、経津主神が国譲りの神話に取り込まれたとき、その神格と知名度に見合うように、地上を平定するために派遣される軍神という地位が与えられた。
筆者は、経津主神にまつわる神話の成り立ちを、このように想定する。
武甕槌神はどうか。
神名にミカを含み、もともと粘土と土器にかかわる甕の神だったものが、ミカヅチという名から雷と結びついて雷神となり、雷光から剣が連想されて武甕槌神は剣神となった。また剣神・稜威雄走神を武甕槌神の祖とする伝承が組み合わさり、さらに古事記では、剣神・経津主神の祖であるはずの五百箇磐石が、武甕槌神の祖として挿し込まれた。こうして武甕槌神は剣神の子孫として位置づけられ、雷と剣を司る神格として確立された。∗17
さらに、武甕槌神が国譲りの神話に取り込まれたとき、もともと経津主神がひとりで地上の平定に向かうはずだったところに、武甕槌神が副官として“割り込んだ”。
そして、神武天皇を救うために霊剣・韴霊が下されたエピソードについても、天つ神が韴霊を下すというシンプルなストーリーだったところに、武甕槌神が剣の持ち主として“割り込んだ”。
少々いじわるな解釈のようにも思われるが、武甕槌神にまつわる神話の成り立ちを、筆者はこのように想定する。
1. 村山, 2000, p.104
2. 経済雑誌社, 1897, p.606
3. 本居, 1901, pp.288-289
4. 和歌森, 1949, p.71
5. 三品, 1971, pp.259-261
6. 田中, 1912, pp.268-270
7. 吉井, 伝統と現代社, 1973, p.38
8. 吉井, 1976, p.128
9. 吉井, 1976, p.45
10. 吉井, 1976, pp.28-29
11. 吉井, 1976, p.7
12. 吉井, 1976, pp.24-25
13. 吉井, 1976, pp.22-24
14. 吉井, 1976, p.127
15. 三品彰英は、経津主神の「フツ」の語源について、韓語のpur(火)、purk(赤、赫)、park(明)との関連性を指摘している(三品, 1971, pp.268-269)。吉井は、経津主神を鉄鉱石と製鉄技術に関連づけているが、鉄鉱石が赤色を呈し、製鉄には火が欠かせず、鉄剣が光を反射することを踏まえると、三品の指摘は示唆に富んでいる。
16. 三品, 1971, p.261
17. 粘土と土器にかかわる甕の神が、剣を司る武神に変化するというのは、やや突飛な発想に思われる。しかし、織物工芸の神である建葉槌命が、武神としての神格を兼ね備えていたように(日立市, 1959, p.834)、土器製作に関連する武甕槌神が、武神としての神格を備えるということは、十分に考えられる。
【結】おわりに
今回、古事記と日本書紀とその他の文献を読み比ベながら、武甕槌神、経津主神、建御名方神の三軍神がどのような神格であるかを検証してきた。
最後に、極々おおまかに各神の神格、系譜∗1、事績について記述する。
建御名方神は、戦勝と軍功を司る戦神である。
大国主神と沼河姫の子であり、事代主神の異母弟である。
諏方大明神画詞では、神功皇后の三韓征伐を勝利に導き、坂上田村麻呂を助けて安倍高丸を討ち取り、風を吹かせて蒙古軍を破ったとされている。古事記では国つ神として扱われ、武甕槌神に戦いを挑んで返り討ちにあったが、他の伝承では、諏訪地方を平定するために邪神を討伐し、諏訪地方を統治する天つ神として振る舞っていた。
経津主神は、鎮護と国防を司る剣神である。
五百箇磐石から生じた磐裂神と根裂神の孫であり、磐筒男神と磐筒女神の子である。
霊剣・韴霊を神格化したものであり、神名に切断音「フツ」を含む。日本書紀では、地上を平定するためおおいに活躍し、各風土記でも、荒ぶる神を討ち倒し、武器や防具を司る神格として語られ、国内で広く信奉されていた。
武甕槌神は、雷光と刀剣を司る武神である。
稜威雄走神の曾孫であり、甕速日神の孫であり、熯速日神の子である。
あるいは稜威雄走神の子であり、甕速日神と熯速日神の兄弟神である。
古事記では天鳥船神を従えて、日本書紀では経津主神の副官として地上ヘ派遣され、葦原中つ国を平定した。神武紀では、危機に瀕した神武天皇を救うために霊剣・韴霊を下した。
なお、経津主神と武甕槌神については同一神か別神か議論があるものの、筆者が別神説を採るのは、先述したとおりである。
1. 三軍神の子孫を自称する氏族も、少なからず存在する。建御名方神の子孫を称する氏族は「諏訪(太田, 1920, p.765)」「神(同, p.724)」「杵淵(同, p.487)」、経津主神の子孫を称するのは「香取(同, p.390)」「矢作(同, p.1385)」、武甕槌神の子孫には「河原(同, p.415)」などがある。
2023.4.30∗1(最終履歴 2025.3.9加筆)
1. 本稿は、筆者が2015年12月23日に公開した「関より東の軍神、タケミカヅチとフツヌシとタケミナカタについて」を大幅に加筆したものである。
一覧
参考文献
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・村山直子「フツヌシ神話と物部氏」(『学習院大学人文科学論集IX』, 学習院大学大学院人文科学研究科, 2000)
・本居宣長『本居全集 第1 古事記伝 神代之部』(吉川半七, 1901)
・吉井巌「日本神話成立の基底 ――『ヌシ』の名をもつ神々をめぐって」(伝統と現代社 編『日本神話の可能性』, 1973)
・吉井巌『天皇の系譜と神話 2』(塙書房, 1976)
・和歌森太郎『日本古代社会』(壮文社, 1949)