関より東の軍神~武甕槌神と経津主神と建御名方神について~


序 はじめに
一 古事記を読んで、建御名方神を分析する
二 日本書紀を読んで、経津主神を分析する
三 記紀を読み比ベて、武甕槌神を分析する
四 武甕槌神と経津主神は、別神か同一神か
結 おわりに


【序】はじめに

 日本神話に登場する武甕槌神たけみかづちのかみ経津主神ふつぬしのかみ建御名方神たけみなかたのかみは、いずれも軍神として知られている。
 平安時代末期の歌謡集『梁塵秘抄』に掲載されている神歌は、日本各地に点在する軍神の筆頭として「関より東の軍神、鹿島香取諏訪の宮」と詠んでいる∗1。鹿島とは、武甕槌神を祀る鹿島神宮、香取とは、経津主神を祀る香取神宮、諏訪の宮とは、建御名方神を祀る諏訪大社のことである。
 これら三軍神は、古事記や日本書紀が伝える国譲りのエピソードに関与する、非常に重要な存在である。
 国譲りのエピソードは、天孫降臨の前段に当たる。記紀は、天照大神の孫に地上を支配させるために、天上の神々と地上の神々がどのようなやりとりをしたのかを伝えている。古事記には武甕槌神と建御名方神が、日本書紀には武甕槌神と経津主神が登場し、古事記と日本書紀とで内容に違いがある。
 本稿では、記紀とその他の文献の記述を比較しながら、武甕槌神、経津主神、建御名方神、これら三軍神がどのような神格として扱われてきたのか概観する。
 なお、引用文は可読性を高めるために適宜漢字の旧字体を新字体に置き換え、難読字はひらがなに開き、句読点などの記号を加除するなどして文体を整えた。

1. 日本歴史地理学会, 1926, p.56


【一】古事記を読んで、建御名方神を分析する

 建御名方神は、古事記が伝える国譲りのエピソードに登場する。

 あるとき天照大神は、みずからの息子に地上・葦原の中つ国を統治させたいと考え、建御雷神(武甕槌神)に天鳥船神を副えて地上に派遣した。
 天降った二神は、出雲国の伊那佐之小浜にやってきて、さかさに突き立てた十握剣のきっさきに胡坐をかいて座りながら、地上を支配する大国主神との交渉を始める。しかし大国主神は「息子の事代主神∗1が回答する」と言って時間稼ぎをしようとする。そこで大国主神の息子・事代主神を問いただすと、事代主神は「恐れ多いことです。この国は、天つ神の御子に献上するベきです」と言って、姿を隠してしまった。
 武甕槌神が「他に意見を聞くベき息子はいるか」とかさねて問うと、大国主神は「建御名方神がいる。他に異論を言う子はいない」と答える。
 そのとき、騒ぎを聞きつけた建御名方神がやって来た。

 その建御名方神、千引の石を手末にささげて来、言はく、「誰ぞ我が国に来て、忍び忍びかく物言ふ。然あらば力競ベせむ。かれ我まづ其の御手を取らむ」といふ。かれ其の御手(武甕槌神の手)を取らしむれば、すなはち立氷に取り成し、また剣刃に取り成しつ。かれしかくして懼りて退き居り。しかくして其の建御名方神の手を取らむと乞ひかヘして取れば、若葦を取るが如く、つかみひしぎて、投げはなてば、逃げ去く。かれ追ひ往きて、科野国の洲羽海に迫め到り、殺さむとする時に、建御名方神白さく「恐し、我をな殺しそ。この地を除きては、他し処に行かじ。また我が父大国主神の命に違はじ。八重事代主神の言に違はじ。この葦原中国は、天つ神の御子の命のまにまに献らむ」とまをす。
〔『新版 古事記 現代語訳付き』, p.72〕

 建御名方神は、千引の岩――千人力でなければ引き動かせないような大きな岩∗2を担いでやって来たことからも分かるとおり、非常な力自慢だった。
 だから武甕槌神に力競ベを挑んだのだが、建御名方神が武甕槌神の腕をつかもうとすると、武甕槌神はその腕を氷の刃に変えた。建御名方神がひるんだところで、武甕槌神は建御名方神の腕をつかんで軽々と投げ飛ばしたので、たまらず建御名方神はその場から逃げ出してしまった。建御名方神は科野国洲羽海(信濃国諏訪海、現代の長野県の諏訪湖)まで追いつめられ、武甕槌神に殺されそうになったところで、「今後は、諏訪の地から出ることはない。父である大国主神の命令にさからわず、事代主神の言葉にもさからわない。葦原中つ国は、天つ神の御子に献上する」と誓い、なんとか命拾いしたのだった。このエピソードは、長野県にある諏訪大社の縁起にもなっている。
 こうして建御名方を打ち負かし、大国主神との交渉を終えた武甕槌神は、天上に帰還して、地上で和平をなしたと報告したのだった。

 ところで、建御名方神の出自については、古事記は詳細を語っていない。
 兄弟である事代主神については、父親は大国主神であり、母親は神屋楯比売命であると説明している∗3。しかし建御名方神については、父親は大国主神だと分かるが、母親が誰なのかは、古事記は言及していない。ただし『先代旧事本紀』地神本紀には「次娶高志沼河姫生一男兒建御名方神、坐信濃国諏方郡諏方神社」とあり∗4、建御名方神の母親は高志沼河姫であると分かる。この高志沼河姫は、高志国之沼河比売という名で、古事記にも登場する∗5
 また、同書「天神本紀」には「亦不違我父大国主神之命。不違兄八重事代主神之言」とあり∗6、建御名方神が、事代主神のことを「兄」と呼んでいる。どうやら事代主神を兄、建御名方神を弟とする観念があったらしい。ちなみに古事記によれば、事代主神の母・神屋楯比売命と、建御名方神の母・沼河比売とでは、大国主神と婚姻したタイミングは沼河比売の方が早い。
 そもそも建御名方神が天つ神に帰順する話は、日本書紀など他の文献には見えず、古事記にしか記載が見当たらない∗7。その古事記でさえも、大国主神の系譜について妻子を列挙しながら説明する場面で、建御名方神とその母・沼河姫の名を記載から漏らしている∗3。おそらく、武甕槌神が大国主神と事代主神に国譲りを迫るエピソードに、建御名方神と諏訪大社の縁起にかかわるエピソードが、あとから追加されたのだろう∗7。だから国譲りの段になって、初めて、唐突に、それまでまったく存在が言及されていなかった建御名方神が、大国主神の息子として登場するのである。

 さて、古事記ではコテンパンに負かされて諏訪地方に引きこもるハメになった建御名方神だが、異伝では、諏訪地方を平定して移住を図る、軍神らしい様子が描かれる。
 康正年間(1455~1457年)の成立∗8といわれる『信濃国日向社伝記』には「太古皇孫邇々杵尊君臨于神州之時、有大国主神者、在八雲立出雲国八百米杵築宮、詔□武南方富命賜科野国、使以開□之命、乃従命至科野国在須羽、而徧巡視国形……乃決排湖水、鏟(ママ)低山岳誅罰邪神、駆猛獣悪魚云……」とあり、武南方富命(建御名方神)が大国主神の命令をうけて信濃国諏訪におもむき、邪神を討ち倒し、猛獣や悪魚を駆逐する。∗9
 文禄5年(1596年)の成立∗10といわれる『上社権祝本諏訪縁起断簡』には「父大神(大国主命)曰、早可行于野国、則辞御許、与妃神・御子神等率諸神巡高志国奉沼河姫神種々品物、逐自小谷入野国洲羽海辺、定御殿弥益為国造之事、……」とあり、建御名方神が妻子諸神を率いて諏訪湖のほとりに移住し、統治を始める。∗9

 さらに正平11年(1356年)成立の、諏訪大社の縁起絵巻『諏方大明神画詞』では、諏訪明神(建御名方神)の神威を伝える様々なエピソードが語られている。
 神功皇后が三韓征伐を行なった際には、諏訪と住吉の二神が神兵を化現し、群鳥と大魚に兵船を守らせて、遠征軍を勝利に導いた∗11。坂上田村麻呂が安倍高丸の追討命令を受けた際には、田村麻呂に同行して先陣を務め、多くの眷属を化現して敵陣に矢を射込んで、高丸を討ち取った∗12。蒙古襲来の際には、龍神に変じて風を起こし、敵船を転覆させて敵兵を溺れ死にさせた∗13
 このように、建御名方神の神威と霊験は、戦勝にみちびき軍功をもたらす、非常に強力なものと考えられていたようである。

 また、宝治3年(1249年)成立の『諏訪信重解状』では「当砌昔者守屋大臣所領也。大神天降御之刻、大臣者奉禦明神之居住、励制止之方法。明神者廻可為御敷地之秘計、或致諍論、或及合戦之処、両方難決雌雄。爰明神者持藤鎰、大臣者以鉄鎰、懸此所引之。明神即以藤鎰、令勝得軍陣之諍論給。而間、令追罰守屋大臣、卜居所当社以来、遙送数百歳星霜、久施我神之称誉於天下給。応跡之方々是新哉。明神、以彼藤鎰自令植当社之前給。藤栄枝葉号藤諏訪之森。毎年二ケ度御神事勤之。自余以来、以当郡名諏方」とあり∗14、天降ってきた建御名方神が、守屋大臣(守矢氏の祖先神である洩矢神)を追討して諏訪を平定した経緯が語られている∗15。『諏方大明神画詞』も類話を伝えている∗16
 古事記では天つ神に対抗する国つ神として登場した建御名方神だったが、ここではまったく逆に、国つ神を征討する天つ神として登場する。

 古事記では良いところが無かった建御名方神だが、その他の説話を俯瞰すると、邪神を討伐する軍神として、戦勝と軍功を司る戦神として、また諏訪地方をあずかる統治神として、ふさわしい神格を備えているといえそうである。実際、鎌倉時代には、建御名方神は「日本第一の軍神」と評され∗14、八幡、香取、鹿島と並ぶほどの崇敬を受けていたのだった∗17

1. 原文では「八重言代主神」(中村, 2009, p.71)
2. 中村, 2009, p.34
3. 中村, 2009, p.62
4. 経済雑誌社, 1898, pp.243-244
5. 中村, 2009, p.56
6. 経済雑誌社, 1898, p.222
7. 中島, 1930, p.169
8. 正確には「康正6年の成立」といわれるが、康正は3年までしかなく、誤伝と思われる(宮地, 1937, p.48)。ここでは、仮に「康正元年から3年のあいだの成立」と想定した。
9. 宮地, 1937, p.48
10. 宮地, 1937, p.61
11. 塙, 1903, pp.495-497
12. 塙, 1903, pp.499-501
13. 塙, 1903, pp.510-511
14. 諏訪史料叢書刊行会, 1931, p.5
15. 信濃教育会, 1939, p.1598
16. 塙, 1903, p.530
17. 長野県神社協会, 1939, p.22


【二】日本書紀を読んで、経津主神を分析する

 古事記には、冒頭で挙げた三軍神のうち武甕槌神と建御名方神が登場したが、経津主神は登場しなかった。経津主神が登場するのは、日本書紀である。

 日本書紀第9段本文では、高皇産霊尊がみずからの孫に地上・葦原の中つ国を統治させたいと考え、経津主神を派遣しようとする。すると武甕槌神が「なぜ経津主神だけが丈夫(ますらを)だというのか。わたしも丈夫ではないか」と異議を申し立てたので、経津主神の副官として武甕槌神を配して、二神を地上に派遣することになった。
 天降った二神は、出雲国の五十田狹之小汀にやってきて、さかさに突き立てた十握剣のきっさきに胡坐をかいて座りながら、地上を支配する大己貴神おおなむちのかみ(大国主神)との交渉を開始する。しかし、ここでも大己貴神は「まずは息子に尋ねて、そのあとに答える」と言って、結論を先延ばしにしようとする。そこで経津主神が使者をやって事代主神を問いただすと、事代主神は「父は去るベきです」と答えて、姿を隠してしまった。使者の報告を聞いた大己貴神は「わたしが頼りにしていた息子は去った。わたしも去ろう。わたしが抵抗すれば、国内の諸神も抵抗しただろうが、わたしが去るなら、歯向かう者はいないだろう」と言って、地上の支配権を天つ神ヘ移譲することに合意し、みずからが地上を平定するときに用いた広矛を二神に託して、姿を隠した。
 そして経津主神と武甕槌神は、天つ神に帰順しない鬼神を誅伐したあと、地上を平定したと天上に報告したのだった。
 なお、この「鬼神を誅伐した」場面について、日本書紀は以下のように補足している。

 一に云はく、二の神、遂に邪神及び草木石の類を誅ひて、皆すでに平けぬ。その不服はぬ者は、ただ星の神香香背男のみ。かれ、また倭文神建葉槌命を遣せば服ひぬ。かれ、二の神、天に登るといふ。(倭文神、此をば「しとりがみ」と云ふ)
〔『日本書紀(一)』, p.120〕

 このように、経津主神は、武甕槌神とともに大己貴神や事代主神との交渉を終えたあと、天つ神に従おうとしない鬼神や邪神を誅伐してまわった。最後まで抵抗を続けていた香香背男も、建葉槌命の助力を得ることで討ち倒し、地上の平定をなし遂げたのだった。∗1
 ちなみに、この香香背男という邪神は、日本書紀9段第2の一書にも、天香香背男という名で登場している。

 一書に曰はく、天神、経津主神・武甕槌神を遣はして、葦原中国を平定めしむ。時に二の神曰さく「天に悪しき神有り。名を天津甕星と曰ふ。亦の名は天香香背男。請ふ、まず此の神を誅ひて、然して後に下りて葦原中国をはらはむ」とまうす。この時、斎主の神を、斎の大人と号す。この神、いま東国の檝取の地に在す。既にして二の神、出雲の五十田狹の小汀に降到りて、大己貴神に問ひて曰はく、「汝、まさに此の国を以て、天神に奉らむや以否や」とのたまふ。こたヘて曰はく、「疑ふ、汝二の神は、これ吾が処に来ませるにあらざるか。かれ、許さず」とのたまふ。ここに、経津主神、すなはち還り昇りて報告す。時に高皇産霊尊、すなはち二の神を還し遣して、大己貴神に勅して曰はく、「今、汝が所言を聞くに、深く其の理有り。故、さらに条にして勅したまふ。それ汝が治す顕露之事は、これ吾孫治すベし。汝は以って神事を治すベし。また汝が住むベき天日隅宮は、いま供造りまつらむこと、すなはち千尋の𣑥縄を以て、結ひて百八十紐にせむ。その宮を造る制は、柱は高く大し。板は広く厚くせむ。また田供佃らむ。また汝が往来ひて海に遊ぶそなヘの為には、高橋・浮橋及び天鳥船、また供造りまつらむ。また天安河に、また打橋造らむ。また百八十縫の白楯を供造らむ。また汝が祭祀をつかさどらむはは、天穗日命、是なり」とのたまふ。
 ここに、大己貴神報ヘて曰く「天神の勅教、かく慇懃なり。敢ヘて命も従はざらむや。吾が治す顕露の事は、皇孫まさに治めたまふベし。吾は退りて幽事を治めむ」とまうす。すなわち岐神を二の神に薦めて曰さく、「これ、まさに我に代りて従ヘ奉るベし。吾、まさにここより避去りなむ」とまうして、すなはち躬に瑞の八坂瓊を被ひて、とこしヘに隠れましき。かれ、経津主神、岐神を以って郷導として、周流きつつ削平ぐ。逆命者有るをば、すなはちまた斬戮す。帰順ふ者をば、よりてまた褒美む。この時に、帰順ふ首渠は、大物主神及び事代主神なり。すなはち八十万の神を天高市にあつめて、ひきゐて天に昇りて、その誠款の至りをまうす。
〔『日本書紀(一)』, pp.139-140〕

 紀第9段第2の一書では、香香背男(天津甕星)は、地上の平定を命じられた経津主神と武甕槌神が「地上の平定ヘ向かう前に、さきに誅討しておきたい」と名指しした悪神とされている。経津主神と武甕槌神は、悪神・香香背男を討ち倒したあと、満を持して地上に向かったのである。また、経津主神が、香香背男の誅討ヘ向かう際に、斎主を務めたと読める描写がある。斎主とは、戦争に際して神祇を斎い祭る者のことであり、軍旅の主将が祭主を務める∗2。斎主神を務めた経津主神については、「現在は東国の香取の地に坐す」とも補足しており、経津主神を祭神とする、千葉県香取市にある香取神宮の縁起に言及している。
 また、紀第9段本文と第1の一書では、大己貴神との交渉はすんなり終わっていたが、この第2の一書では一転して、一方的に地上の支配権を要求する天つ神の態度に対し、大己貴神が「許さない」と支配権の譲渡を拒絶する。すぐさま経津主神たちは天上にとって返し、高皇産霊尊に事態を報告したうえで大幅な譲歩案を引き出し、ふたたび大己貴神との交渉にのぞんで交換条件を提示する。
 経津主神が示した条件は、複数の項目にわたった。
 天孫が地上を支配して顕露之事(現世のこと)を治めるかわりに、大己貴神は神事(幽神之事∗3、神々の世界のこと)を治める。大己貴神が住むための天日隅宮を、あらたに造る。田をつくる。橋と船を造る。天安河に打橋を造る。百八十縫の白楯をつくる。天照大神の次男である天穗日命に、大己貴神を祀らせる。
 これらの好条件を示されて、大己貴神は「慇懃である(丁寧で礼儀にかなっている)」と評価し、地上の支配権を移譲することに合意したのだった。
 そうして、難航していた大己貴神との交渉をようやく終えた経津主神は、大己貴神が推薦した岐神を先導役として国内をめぐり、命令に逆らう者を斬り殺し、帰順する者に褒美をあたえることで、ついに地上を平定したのだった。
 このように、日本書紀における経津主神は、軍神として剣神として、また交渉神として伝達神として、存分な活躍を見せている。

 さらに『延喜式』「遷却崇神祭」でも、経津主命と建雷命(武甕槌神)が登場し、荒ぶる神を排撃し、あるいは服従させている∗4。内容は、おおむね日本書紀と一致する。『延喜式』は、律令のいわば施行細則にあたり、国の中央では、経津主神と武甕槌神のふたりが地上を平定するストーリーが定着していたと推測できる。
 その他、「出雲国造神賀詞」では、布都怒志命は天夷鳥命の副官として天降り、荒ぶる神を平らげた∗5。『出雲国風土記』意宇郡楯縫郷の条では、布都怒志命が天石楯をつくり直した∗6。『常陸国風土記』信太郡の条では、普都大神が葦原中つ国をめぐって山河の荒ぶるものを平らげ、身につけていた鎧や戈、楯を脱ぎ置いた∗7。『肥前国風土記』三根郡物部郷の条では、推古天皇から新羅征伐を命じられた来目皇子が社を建てさせ、物部経津主之神を祀らせた∗8。布都怒志命も普都大神も物部経津主之神も、すベて経津主神の別名である。
 これらの異伝でも、経津主神は荒ぶる神を討ち倒し、武器や防具、鎮護と国防を司る神格として語られている。とくに風土記の記述からは、国の東端から西辺にいたるまで、各地方で経津主神が信奉されていたと推測できる。∗9

 そもそも経津主神の名にある「フツ」とは、物を断つ際の擬音である「ブツ」、「プツ」を表わしており∗10、いかにも剣神にふさわしい名である。また経津主神は、武甕槌神とともに、さかさに突き立てた剣のきっさきに胡坐をかいて座りながら大己貴神と交渉をしていたが、この「剣のきっさきに胡坐をかいて座る」のは、剣霊が出現するときに特徴的な所作である∗11
 また、経津主神と武甕槌神は、日本書紀が伝える出生の経緯から、剣の申し子とでもいうベき神々と考えられる。
 紀第5段第6の一書が伝えるエピソードはこうである。
 伊弉諾尊と伊弉冉尊の夫婦が神生みを行なった最後、伊弉冉尊は火神・軻遇突智を産んで焼死ししてしまった。妻を焼き殺した火神を、伊弉諾尊が十握剣で斬り殺したとき、剣の刃からしたたり落ちた血から、天安河辺にある五百箇磐石が生じた。この五百箇磐石が、経津主神の祖である。また剣の鍔からしたたり落ちた血から、甕速日神と熯速日神が生まれた。その甕速日神が、武甕槌神の祖である。また剣の峰からしたたり落ちた血から、磐裂神と根裂神と磐筒男命と磐筒女命が生まれた。
 紀第5段第7の一書は、軻遇突智の血が五百箇磐石にふりかかって生じたのが磐裂神と根裂神であり、磐裂神と根裂神が生んだ子が磐筒男神と磐筒女神であり、磐筒男神と磐筒女神が生んだ子が経津主神であるとしている。武甕槌神は登場しない。
 経津主神の系譜について、第6の一書は「五百箇磐石の子孫である」としており、磐裂神と根裂神と磐筒男と磐筒女とは別血統になっている。一方、第7の一書では「五百箇磐石から生じた磐裂神と根裂神の孫であり、磐筒男と磐筒女の子である」とされており、血統の異なる神々が、経津主神の祖先として組み込まれている。
 紀第9段本文は、経津主神は、磐裂根裂神の子である磐筒男・磐筒女の子であるとしている。武甕槌神は、天石窟に住む稜威雄走神の子である甕速日神の子である熯速日神の子であるとしている。稜威雄走神は、伊弉諾尊が火神を斬り殺したときに用いた剣を神格化したものである∗12
 説話によって細部は異なるが、いずれにしろ日本書紀は、経津主神と武甕槌神を、剣からしたたり落ちた血から生まれた神々の子孫としている。

 経津主神は、剣と血にまつわる神々の子孫であり、フツヌシという名も、刀剣のおもたる機能である「切断」に関連している。剣の申し子というベき神格であり、実際に、香香背男を始めとする悪鬼邪神を討伐するなど、剣神としておおいに活躍している。各風土記でも、荒ぶる神を討ち倒し、武器や防具、鎮護と国防を司る神格として語られ、国内で広く信奉されていたと推測できる。

1. 香香背男と建葉槌命については、以下のような説話が伝わっている。

 神代の昔、鹿島の武甕槌命と香取の経津主命は、常陸の国を平定しようとして進軍して来たが、この地方一帯を支配していた香香背男が頑強に抵抗して、散々に悩まされた。香香背男は勝ち誇って巨岩と化し、ずんずん生長して天を突き破る勢であった。そのとき静の里で住民に機織などを教えていた健葉槌命(建葉槌命)は、鎧に身をかためて鹿島、香取の神を助けるためにはせ参じ、鉄の靴(あるいは金の靴ともいう)でその巨岩を蹴飛ばすと、巨岩は三つに砕けて飛び散り、香香背男は血をはいて死んでしまった。そのとき飛び散った巨岩の一つは那珂郡の石神に、一つは東茨城郡の石塚に、もう一つは笠間の岩井に落ちたといわれる。古謡集などにもこの岩のことが記されており、これを雷神石ともよんでいる。
〔『日立市史』, p.921〕

2. 坂本, 1994, p.137
3. 坂本, 1994, p.139
4. 国民図書, 1927, p.734
5. 国民図書, 1927, p.741
6. 国民図書, 1927, p.409
7. 国民図書, 1927, p.347
8. 国民図書, 1927, p.625
9. 吉井は、経津主神の国土平定の物語は、物部氏が石上神宮の神剣の威力をもって各地で戦った歴史に支えられたものと推測している。(吉井, 伝統と現代社, 1973, p.37)
10. 坂本, 1994, p.370
11, 坂本, 1994, pp.370-371
12. 坂本, 1994, pp.116-119


【三】記紀を読み比ベて、武甕槌神を分析する

 武甕槌神は、古事記と日本書紀のどちらにも登場する。

 タケミカヅチという神名を解すれば、タケは武、ミカはミイカの約(ミは神のもの又は神の行為を表わす接頭語、イカは厳)、ヅは助詞、チは威勢あるものを意味し、イカヅチは電光のことで、剣を連想させる∗1。タケミカヅチは、古事記では建御雷神または建御雷之男神と表記され、日本書紀神武紀でも武甕雷神と表記されており、いずれも雷との関連性を示唆している。
 武甕槌神は剣神であり、建御名方神や経津主神と並ぶ武神であり、また電光を司る雷神なのである。
 なお、日本書紀は「今在于東国檝取之地也」、古事記は「到科野国之州羽海」という具合に、それぞれ経津主神と香取神宮、建御名方神と諏訪大社との関係を示唆しているが、武甕槌神と鹿島神宮の関係については、記紀のどちらも触れていない。風土記にも記載が見当たらない∗2。『古語拾遺』の「武甕槌神、是甕速日神之子、今常陸国鹿島神是也」という記述で∗3、武甕槌神と、茨城県鹿嶋市にある鹿島神宮とが、初めて結びつくのである∗4
 さらに考察を深めるため、記紀の内容をくわしく比較していく。

1)武甕槌神は誰の子か
 日本書紀第5段第6の一書は、武甕槌神は、伊弉諾尊が火神を斬り殺したとき剣の鍔からしたたり落ちた血から生まれた甕速日神と熯速日神のうち、甕速日神の子孫であるとしている。
 また紀第9段本文は、武甕槌神は、稜威雄走神の曾孫であり、甕速日神の孫であり、熯速日神の子であるとしている。稜威雄走神は、伊弉諾尊が火神を斬り殺したときに生まれた神であり∗5、古事記に登場する、伊弉諾尊が火神を斬り殺したときに用いた剣・天之尾羽張を神格化した伊都之尾羽張神と同一視される∗6

 古事記の火神殺害の場面では、剣からしたたり落ちた血から、甕速日神と樋速日神(熯速日神)と武甕槌神が次々に生まれたとされている。
 古事記の当該場面を引用する。

 ここに伊邪那岐命、御佩かせる十拳の剣を抜き、其の子迦具土神の頸を斬りたまふ。しかして其の御刀の前に着ける血、湯津石村に走り就き成れる神の名は、石拆神。次に根拆神。次に石筒之男神。三の神。次に御刀の本に着ける血も、湯津石村に走り就き成れる神の名は、甕速日神。次に樋速日神。次に建御雷之男神、またの名は建布都神、またの名は豊布都神。三の神。次に御刀の手上に集まれる血、手俣より漏き出で成れる神の名は、闇淤加美神。次に闇御津羽神。
 上の件、石拆神より以下、闇御津羽神より以前、并せて八の神は、御刀に因り生れし神ぞ。
〔『新版 古事記 現代語訳付き』, p.31〕

 甕速日神と熯速日神と武甕槌神は、日本書紀第9段本文では祖父・父・子という間柄だったが、古事記では、いちどに生まれた兄弟という位置づけのようである。また武甕槌神には、建布都神と豊布都神という別名があるとしている。
 さらに、古事記が伝える国譲りの場面では、武甕槌神は、伊都之尾羽張神の子であると説明されている。この伊都之尾羽張神は、先述したとおり、伊弉諾尊が火神を殺害するときに用いた剣・天之尾羽張を神格化したものであり、日本書紀に登場する稜威雄走神と同一視される。ちなみに、この神名を古事記では「イツノヲハハリ」、日本書紀では「イツノヲハシリ」と訓むが、ヲハシリは刀剣を鍛造するときに閃光が走る様子を意味し、ヲハハリは誤写であると推測される∗5
 このように武甕槌神の系譜について、紀第9段本文は「稜威雄走神の曾孫であり、甕速日神の孫であり、熯速日神の子である」としており、古事記は「稜威雄走神の子である」としている。日本書紀が武甕槌神を剣神・稜威雄走神の曾孫としているのに対して、古事記は息子としており、世代に差がある。しかし、武甕槌神が剣神の子孫であることは共通している。

 話は変わるが、経津主神が古事記でどう扱われているかについても、ここで言及しておきたい。
 日本書紀第5段第6の一書は、火神の血から生じた五百箇磐石の子孫が、経津主神であるとしていた。紀第5段第7の一書は、火神の血がふりかかった五百箇磐石から磐裂神と根裂神が生まれ、磐裂神と根裂神が磐筒男神と磐筒女神を生み、磐筒男神と磐筒女神が経津主神を生んだとしていた。
 しかし古事記は、火神の血がふりかかった五百箇磐石(湯津石村)から磐裂神(石拆神)と根裂神(根拆神)と磐筒男神(石筒之男神)が生まれたところで、記述を打ち止めている。日本書紀で磐筒男神が生んだとされていた経津主神は、古事記では存在が完全に無視され、系譜が途切れているのである。
 興味を引かれるのは、日本書紀第5段第6の一書では「火神の血がしたたり落ちて生まれた甕速日神と熯速日神のうち、甕速日神の子孫が武甕槌神である」とされていたのに対して、古事記は「火神の血が五百箇磐石にふりかかって生まれたのが、甕速日神と熯速日神と武甕槌神である」としていることである。
 日本書紀は、武甕槌神は火神の血から生まれた神々の子孫としていたが、古事記では、経津主神と同じように、火神の血から生じた五百箇磐石の子孫とされ、世代がひとつ挟み込まれているように読めるのである。

2)武甕槌神の地位
 日本書紀第9段本文では、地上を平定するために派遣する軍神として、まず経津主神ひとりが選ばれた。そのことを不満に思った武甕槌神が異議を申し立て、いわば割り込むようにして経津主神の副官となり、経津主神と武甕槌神のふたりが地上に派遣されることになった。どうやら武甕槌神は、経津主神よりも一段低い扱いを受けていたようである。
 紀第9段第1の一書では、武甕槌神と経津主神のどちらが副官とは書かれておらず、同格として扱われているようにも読める。
 紀第9段第2の一書では、経津主神が斎主を務める描写がある。斎主とは、戦争に際して神祇を斎い祭る者のことであり、軍旅の主将が祭主を務める∗7。ここでも本文と同じく、経津主神が主将として扱われ、武甕槌神が副将として扱われていると考えられる。さらに第2の一書では、大己貴神がいちど交渉を拒絶したとき、経津主神が天上に戻って、命令者である高皇産霊尊に事態を報告している。また経津主神は、大己貴神との交渉を終えたあと、岐神を先導として国内を巡り、逆らう者たちを誅伐してまわった。
 地上を平定するために、もっぱら経津主神が主体となって動き回っており、武甕槌神はひたすら影が薄い。
 しかし古事記の国譲りの場面では、一転して、武甕槌神が主役に躍り出る。

 天照大神は、長男である天忍穗耳尊に地上を統治させたいと考え、まず次男である天菩比神(天穗日命)を、つづいて天若日子を地上に派遣した。しかし、ふたりとも地上を支配する大国主神(大己貴神)の側に寝返ってしまい、報告は上がってこず、ふたりが天上に帰還する様子も無い。
 そこで神々は、地上に派遣する3人目の神を誰にするか話し合い、伊都之尾羽張神を派遣することにする。伊都之尾羽張神は別名を天尾羽張神といい、日本書紀に登場する稜威雄走神と同一視される。

 ここに天照大御神詔りたまはく、「またいづれの神を遣はさば吉けむ」とのりたまふ。しかして思金神と諸神たち白さく、「天の安河の河上の天の石屋に坐す、名は伊都之尾羽張神、これ遣はすベし。もしまたこの神に非ずは、その神の子・建御雷之男神、これ遣はすベし。またその天尾羽張神は、逆に天の安河の水を塞き上げて、道を塞ヘ居り。かれ他し神はえ行かじ。かれ別に天迦久神を遣はして問ふベし」とまをす。かれ天迦久神を使はし、天尾羽張神を問ひたまふ時に答ヘ白さく、「かしこし、仕ヘ奉らむ。然れども此の道には、僕が子、建御雷神を遣はすベし」とまをすすなはちたてまつる。しかして天鳥船神を建御雷神に副ヘて遣はす。
〔『新版 古事記 現代語訳付き』, pp.70-71〕

 神々は、地上に派遣する第一候補として伊都之尾羽張神(稜威雄走神)を、第二候補として稜威雄走神の子である建御雷神(武甕槌神)を選んだ。そこで使者をやって、稜威雄走神に地上を平定するよう打診したのだが、稜威雄走神は「武甕槌神を派遣すベきです」と辞退し、かわりに息子である武甕槌神を推薦する。
 稜威雄走神からの推薦を受けて、また、もともと第二候補として名が挙がっていたこともあって、神々は、武甕槌神を地上ヘ派遣することを決める。そうして地上に派遣された武甕槌神は、天鳥船神を副官として従えながら、大国主神との交渉にのぞみ、反抗してきた建御名方神を打ち倒し、大国主神から地上の支配権を奪ったのだった。
 このように古事記では、武甕槌神は地上を平定した立役者として、おおいに活躍している。
 もともと地上に派遣する候補にすら上がらないでカヤの外だったうえ、地上に派遣されたあとも経津主神の副官として影が薄いままだった日本書紀とは、大違いである。

 ところで古事記は、火神殺害の場面で武甕槌神の出生について語ったとき、武甕槌神の別称として「建布都神」と「豊布都神」を挙げていた。どちらも神名に「フツ」を含んでおり、あきらかに経津主神と関連している。
 また古事記と日本書紀は、窮地に陥った神武天皇を救うために、武甕槌神が剣を下すエピソードを伝えている。このとき下した霊剣の名を韴霊(フツノミタマ)といい、これも「フツ」を含んでいる。経津主神と武甕槌神の、主将と副将という立場を超えた、より強い関係性を示唆している。

3)武甕槌神が下した韴霊とは何なのか
 先述したとおり、古事記と日本書紀は、熊野にやってきた神武天皇が進退きわまったとき、天皇を救うために武甕槌神が霊剣を下したエピソードを伝えている。
 記紀で多少の違いはあるものの、おおまかな内容は同じなので、以下のとおり、日本書紀から当該場面を引用する。

 時に彼処に人あり、号を熊野の高倉下と曰ふ。たちまちに夜夢みらく、天照大神、武甕雷神にかたりて曰はく、「それ葦原中国は、なほ聞喧擾之響焉(聞喧擾之響焉、此をば「さやげりなり」と云ふ)。汝また往きて征て」とのたまふ。武甕雷神こたヘて曰さく、「予、行らずと雖も、予が国を平けし剣を下さば、国おのづからに平けなむ」とまうす。天照大神の曰はく、「諾なり(諾、此をば「うベなり」と云ふ)」とのたまふ。時に武甕雷神、すなはち高倉下にかたりて曰はく、「予が剣、号を韴霊と曰ふ(韴霊、此をば「ふつのみたま」と云ふ)。今まさに汝が庫のうちに置かむ。取りて天孫に献れ」とのたまふ。高倉下、「をを」と曰すとみてさめぬ。明旦に、夢の中の教に依りて、庫を開きて視るに、はたして落ちたる剣ありて、さかしまに庫の底板に立てり。すなはち取りてたてまつる。
〔『日本書紀(一)』, pp208-210〕

 日本書紀は、「韴霊」は、武甕雷神(武甕槌神)が地上を平定するときに用いた剣であるとしている。剣の「フツノミタマ」という名は、「経津主神の御魂」を意味していると思われ、経津主神との強い関係性をうかがわせる。
 古事記は、剣の名は「佐士布都神」又は「甕布都神」又は「布都御魂」であるとしている。すベての名に「フツ」を含んでおり、やはり経津主神との強い関係性を示唆している。また「この刀は、石上神宮に坐す」とも補足しており、奈良県天理市にある石上神宮の縁起に言及している。石上神宮の祭神は布都御魂大神であり、その御神体は布都御魂剣(ふつのみたまのつるぎ)とされる。
 さらに『先代旧事本紀』「天孫本紀」は、韴霊の別名として「布都主神魂刀(ふつぬしのかみのみたまのつるぎ)」、「佐士布都」、「建布都」、「豊布都神」を挙げている∗8

 ひとつずつ検証していこう。
 日本書紀の韴霊はフツノミタマと訓み、古事記の布都御魂と同音である。いずれも「経津主神の御魂」を意味すると推測でき、旧事本紀は、ずばり「布都主神魂刀」という別名を記載している。フツノミタマとは、フツヌシノミタマまたはフツヌシノカミノミタマのことであり、経津主神の御魂の意であろう。
 古事記の佐士布都神と、旧事本紀の佐士布都は、ともに「フツ」を含む。「佐士(さじ)」が何を意味するのかは判然としないが、「刺し」の義であるとも∗9、小刀を意味する「佐比(さひ)」に通じるともいわれる∗10。いずれにしても、刀剣にまつわる神名であると推測できる。
 甕布都神は「ミカ」と「フツ」を含み、武甕槌神と経津主神との関連を示唆している。「ミカ」はミイカ(御威)の約であり∗11、「フツ」と合わせて、剣の威力と切断音を表わすと解釈できる。
 旧事本紀の建布都と豊布都神も「フツ」を含み、古事記が武甕槌神の別名として挙げていた建布都神と豊布都神に通じる。これらの名も、やはり剣の威力と切断音を表わすと解釈できる∗11
 以上のとおり、武甕槌神が持つ剣の、韴霊などの名称・別称はすベて「フツ」を含んでおり、経津主神との関係性を強く示唆している。また甕布都神や豊布都神などのように、剣の持ち主である武甕槌神と、剣あるいは経津主神とを、混同または同一視しているような名称もある。

1. 坂本, 1994, p.43
2. いちおう常陸国風土記には「自高天原降来大神、名称香島天之大神、天則号曰香島之宮、地則名豊香嶋之宮」という記述があり、香島天之大神という神の来歴と、香島の宮(鹿島神宮)の縁起について言及されている。しかし、この香島天之大神と武甕槌神の関係性は分からない。
3. 塙, 1901, p.4
4. 吉井, 1976, pp.42-43
5. 坂本, 1994, pp.116-119
6. 中村, 2009, p.70
7. 坂本, 1994, p.137
8. 経済雑誌社, 1898, pp.262-263
9. 中村, 1882, p.475
10. 井乃, 1939, p.146
11. 中村, 2009, p.31


【四】武甕槌神と経津主神は、別神か同一神か
 前段で、神武天皇を救うために武甕槌神が下した霊剣・韴霊(フツノミタマ)の名が、「経津主神の御魂」と解釈できることを確認した。また、韴霊の別名には、剣の持ち主である武甕槌神と、剣あるいは経津主神とを混同しているような名が複数あることを確認した。

 これらの事実を踏まえて、多くの研究者は、経津主神は、韴霊を神格化したものであり、元来は、剣の持ち主である武甕槌神と同一神だったと考察している。∗1
 本居宣長は、経津主神が古事記に登場しないことに加え、藤原良継が病んだ宝亀8年に、武甕槌神を祀る鹿島神宮が正三位、経津主神を祀る香取神宮がそれより下の正四位上に叙されている∗2ことを指摘したうえで、日本書紀は、経津主神を大将とし、武甕槌神をそれより下の副将としており、二神の上下関係が逆転していると批判している。そのため、日本書紀が伝える経津主神にまつわるエピソードは根拠が無く、経津主神はあくまで武甕槌神の別名であって、二神は同一神であると断定している。また、経津主神という名は、武甕槌神が所持する剣・韴霊から出たものとしている。∗3
 和歌森太郎は、武甕槌神はもともと雷を神格化したものであり、雷光から刀剣が連想されることで強武なる天神ヘと変貌し、経津主神とともに崇拝されるに至ったとしている。∗4
 三品彰英は、雷神である武甕槌神がさかさに立てた剣の先に胡坐をかいて座る様子を、雷光を司る自然神としての武甕槌神と、電光を表徴する霊剣としての韴霊とに関連づけながら、武甕槌神と経津主神を同一神と見なしている。∗5

 一方で、武甕槌神と経津主神は別神であるとする研究者もいる。
 田中義能は、本居宣長に反論する形で、天照大神を命令者とする日本書紀第9段第1の一書が、二神を「武甕槌神及び経津主神」という順序で書き出していることに着目し、この一書が、武甕槌神を大将とし、経津主神を副将とする伝承である可能性を指摘している。このことを踏まえて、紀第9段第1の一書とおなじく天照大神を命令者とする古事記で経津主神が登場しないのは、副将である経津主神が省略されたからであると推測し、武甕槌神と経津主神はそれぞれ存在が確立された別神であると結論づけている。∗6
 吉井巌は、剣を尊んだ「布都御魂」という呼び名から佐士布都神、甕布都神、普都大神へと次第に人格神として名称をととのえ、紀において経津主神なる名称が新たに与えられたと推測しつつ∗7∗8、物部氏が伝承してきた経津主神の役割を、藤原氏の氏神である武甕槌神が入れかわり引きついだとしている∗9。また、経津主神は、出雲、常陸、肥前の風土記に登場することから、剣神として地方にも広く知られていた一方で、武甕槌神は風土記に見当たらず、軍神として語られるのは記紀のみであると指摘している∗10。さらに、タケミカヅチという神名に含まれる「ミカ」が土器や容器を意味することを踏まえて∗11、武甕槌神はもともと軍神ではなく、成型した粘土を火で焼くことでつくられる、土器にまつわる甕の神であったと推定している∗12。あわせて、経津主神についても、岩根を焼き砕く火焔と、石から鉄を取り出す精錬技術に関連する∗13、赤い鉄鉱石から生まれた剣神であると想定している∗14∗15

 このように、武甕槌神と経津主神が別神か同一神かについては、近世以来さまざまな研究家のあいだで論争が繰り返されてきたものの∗16、現在にいたるまで、一致した定説は確立していない。
 それでも、もし経津主神と武甕槌神を同一神として、経津主神が武甕槌神から分化したと仮定すると、日本書紀の記述から導き出される「五百箇磐石-磐裂神根裂神-磐筒男神磐筒女神-経津主神」と「稜威雄走神-甕速日神-熯速日神-武甕槌神」という、4世代にわたる二神の系譜が、詳細に過ぎ、あまりに手が込んでいると感じる。経津主神が、武甕槌神から分化した、いわばポッと出の神であるならば、紀に記載されている経津主神の系譜はもっと単純か、いっそ無くてもおかしくないように思われる。紀第5段第6の一書でごていねいに経津主神と武甕槌神の系譜を併記しておいて、第7の一書でわざわざ武甕槌神を無視している意図も分からない。
 その一方で、経津主神と武甕槌神は別神であり、さらに武甕槌神よりも経津主神の方がより古い神格であるとすると、経津主神の系譜のみ記述しされている紀第5段第7の一書と、経津主神だけでなく武甕槌神の系譜についても記述されている第6の一書とが、整理されて第9段本文に統合され、古事記では逆に、五百箇磐石の系譜から経津主神が省略され、武甕槌神の系譜についてのみ詳しく記述されるようになったという、記紀編纂の過程における内容の変遷を想定できるように思う。こちらの方が、まだ流れが自然ではないだろうか。

 そうして先賢の論説を踏まえつつ、筆者が考察を述ベるなら、経津主神と武甕槌神は、やはり別神であると思われる。

 経津主神を、霊剣・韴霊を神格化したものとする説には、異論は無い。
 まず、神武天皇を救った霊剣・韴霊にまつわる伝承が存在し、韴霊を人格神化した経津主神が生まれ、鎮護と国防を司る剣神として、国内で広く信仰されるようになった。そして、経津主神が国譲りの神話に取り込まれたとき、その神格と知名度に見合うように、地上を平定するために派遣される軍神という地位が与えられた。
 筆者は、経津主神にまつわる神話の成り立ちを、このように想定する。

 武甕槌神はどうか。
 神名にミカを含み、もともと粘土と土器にかかわる甕の神だったものが、ミカヅチという名から雷と結びついて雷神となり、雷光から剣が連想されて武甕槌神は剣神となった。また剣神・稜威雄走神を武甕槌神の祖とする伝承が組み合わさり、さらに古事記では、剣神・経津主神の祖であるはずの五百箇磐石が、武甕槌神の祖として挿し込まれた。こうして武甕槌神は剣神の子孫として位置づけられ、雷と剣を司る神格として確立された。∗17
 さらに、武甕槌神が国譲りの神話に取り込まれたとき、もともと経津主神がひとりで地上の平定に向かうはずだったところに、武甕槌神が副官として“割り込んだ”。
 そして、神武天皇を救うために霊剣・韴霊が下されたエピソードについても、天つ神が韴霊を下すというシンプルなストーリーだったところに、武甕槌神が剣の持ち主として“割り込んだ”。
 少々いじわるな解釈のようにも思われるが、武甕槌神にまつわる神話の成り立ちを、筆者はこのように想定する。

1. 村山, 2000, p.104
2. 経済雑誌社, 1897, p.606
3. 本居, 1901, pp.288-289
4. 和歌森, 1949, p.71
5. 三品, 1971, pp.259-261
6. 田中, 1912, pp.268-270
7. 吉井, 伝統と現代社, 1973, p.38
8. 吉井, 1976, p.128
9. 吉井, 1976, p.45
10. 吉井, 1976, pp.28-29
11. 吉井, 1976, p.7
12. 吉井, 1976, pp.24-25
13. 吉井, 1976, pp.22-24
14. 吉井, 1976, p.127
15. 三品彰英は、経津主神の「フツ」の語源について、韓語のpur(火)、purk(赤、赫)、park(明)との関連性を指摘している(三品, 1971, pp.268-269)。吉井は、経津主神を鉄鉱石と製鉄技術に関連づけているが、鉄鉱石が赤色を呈し、製鉄には火が欠かせず、鉄剣が光を反射することを踏まえると、三品の指摘は示唆に富んでいる。
16. 三品, 1971, p.261
17. 粘土と土器にかかわる甕の神が、剣を司る武神に変化するというのは、やや突飛な発想に思われる。しかし、織物工芸の神である建葉槌命が、武神としての神格を兼ね備えていたように(日立市, 1959, p.834)、土器製作に関連する武甕槌神が、武神としての神格を備えるということは、十分に考えられる。


【結】おわりに
 今回、古事記と日本書紀とその他の文献を読み比ベながら、武甕槌神、経津主神、建御名方神の三軍神がどのような神格であるかを検証してきた。
 最後に、極々おおまかに各神の神格、系譜∗1、事績について記述する。

 建御名方神は、戦勝と軍功を司る戦神である。
 大国主神と沼河姫の子であり、事代主神の異母弟である。
 諏方大明神画詞では、神功皇后の三韓征伐を勝利に導き、坂上田村麻呂を助けて安倍高丸を討ち取り、風を吹かせて蒙古軍を破ったとされている。古事記では国つ神として扱われ、武甕槌神に戦いを挑んで返り討ちにあったが、他の伝承では、諏訪地方を平定するために邪神を討伐し、諏訪地方を統治する天つ神として振る舞っていた。

 経津主神は、鎮護と国防を司る剣神である。
 五百箇磐石から生じた磐裂神と根裂神の孫であり、磐筒男神と磐筒女神の子である。
 霊剣・韴霊を神格化したものであり、神名に切断音「フツ」を含む。日本書紀では、地上を平定するためおおいに活躍し、各風土記でも、荒ぶる神を討ち倒し、武器や防具を司る神格として語られ、国内で広く信奉されていた。

 武甕槌神は、雷光と刀剣を司る武神である。
 稜威雄走神の曾孫であり、甕速日神の孫であり、熯速日神の子である。
 あるいは稜威雄走神の子であり、甕速日神と熯速日神の兄弟神である。
 古事記では天鳥船神を従えて、日本書紀では経津主神の副官として地上ヘ派遣され、葦原中つ国を平定した。神武紀では、危機に瀕した神武天皇を救うために霊剣・韴霊を下した。

 なお、経津主神と武甕槌神については同一神か別神か議論があるものの、筆者が別神説を採るのは、先述したとおりである。

1. 三軍神の子孫を自称する氏族も、少なからず存在する。建御名方神の子孫を称する氏族は「諏訪(太田, 1920, p.765)」「神(同, p.724)」「杵淵(同, p.487)」、経津主神の子孫を称するのは「香取(同, p.390)」「矢作(同, p.1385)」、武甕槌神の子孫には「河原(同, p.415)」などがある。


2023.4.30∗1(最終履歴 2025.3.9加筆)

1. 本稿は、筆者が2015年12月23日に公開した「関より東の軍神、タケミカヅチとフツヌシとタケミナカタについて」を大幅に加筆したものである。


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参考文献
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・太田亮『姓氏家系辞書』(磯部甲陽堂, 1920)
・経済雑誌社 編『国史大系 第2巻』(経済雑誌社, 1897)
・経済雑誌社 編『国史大系 第7巻』(経済雑誌社, 1898)
・国民図書株式会社 編『日本文学大系 第1』(国民図書, 1927)
・坂本太郎, 家永三郎, 井上光貞, 大野晋 校注『日本書紀(一)』(岩波書店, 1994)
・信濃教育会 編『建武中興を中心としたる信濃勤王史攷』(信濃毎日新聞, 1939)
・諏訪史料叢書刊行会 編『諏訪史料叢書 巻15』(諏訪史料叢書刊行会, 1931)
・中島悦次『古事記評釈』(山海堂出版部, 1930)
・長野県神社協会 編『特殊神事の研究 第4輯』(長野県神社協会, 1939)
・中村啓信 訳注『新版 古事記 現代語訳付き』(KADOKAWA, 2009)
・中村不能齋「太古兵器考馬具附出(続)」(『学芸志林 第11巻』, 東京大学, 1882.11)
・日本歴史地理学会 編『歴史地理日本兵制史』(日本歴史地理学会, 1926)
・塙保己一 編『群書類従 第16輯』(経済雑誌社, 1901)
・塙保己一 編『続群書類従』(経済雑誌社, 1903)
・日立市史編さん会 編『日立市史』(日立市, 1959)
・三品彰英『三品彰英論文集 第2巻 建国神話の諸問題』(平凡社, 1971)
・宮地直一『諏訪神社の研究 後篇』(信濃教育会諏訪部会, 1937)
・村山直子「フツヌシ神話と物部氏」(『学習院大学人文科学論集IX』, 学習院大学大学院人文科学研究科, 2000)
・本居宣長『本居全集 第1 古事記伝 神代之部』(吉川半七, 1901)
・吉井巌「日本神話成立の基底 ――『ヌシ』の名をもつ神々をめぐって」(伝統と現代社 編『日本神話の可能性』, 1973)
・吉井巌『天皇の系譜と神話 2』(塙書房, 1976)
・和歌森太郎『日本古代社会』(壮文社, 1949)