天智天皇の御宇に、藤原千方と云ふ者有て、金鬼、風鬼、水鬼、隠形鬼と云ふ、四の鬼を使ヘり。金鬼は其身堅固にして、矢を射るに立ず。風鬼は大風を吹せて、敵城を吹破る。水鬼は洪水を流して、敵を陸地に溺す。隠形鬼は其形を隠して、俄に敵を拉。如斯の神変、凡夫の智力を以て可防非ざれば、伊賀、伊勢の両国、是が為に妨られて、王化に従ふ者なし。爰に紀朝雄と云ける者、宣旨を蒙て、彼国に下り、一首の歌を読て、鬼の中ヘぞ送ける。草も木も我が大君の国なればいづくか鬼の栖なるベき。四の鬼、此の歌を見て「さては我等、悪逆無道の臣に随て、善政有徳の君を背き奉りける事、天罰遁るる処無りけり」とて、忽に四方に去て失にければ、千方勢ひを失て軈て朝雄に討れにけり。
〔『太平記』巻十六「日本朝敵事」〕
(1)『本朝神社考』
世に伝ふ千方は天智帝の叛臣なり。千方、四鬼を使役す。所謂金鬼、風鬼、水鬼、隠形鬼なり。伊賀伊勢の間に在りて王命に順はず。是に於いて紀友雄に勅して千方を討たしむ。友雄乃ち往いて和歌を詠じて之を送る(草も木も、我が大君の、国なれば、いづくか鬼の、すみかなるベき。)諸鬼、之を読んで感じて散じ去る。千方、勢ひを失つて、友雄、終に之を討滅す。
〔『本朝神社考』千方〕
(2)「田村」
シテ詞「いかに鬼神もたしかに聞け。昔もさるためしあり。千方といひし逆臣に仕ヘし鬼も。王位をそむく天罰にて、千方を捨つれば忽ち亡びうせしぞかし。
〔謡曲「田村」〕
(3)『神明鏡』
天智の御宇には藤原千方と云ふ者、四鬼を仕て防ぎしか共、紀友尾が「草も木も我大君の国なれば、いづくか鬼の栖成ベき」と読しかば、鬼去て千方亡ぬ。
〔『神明鏡 下』第九十五「後醍醐院」〕
(4)『伊水温故』
i. 三国ケ嶽
千方将軍籠居の地なり。谷は北南二十五間、東西八間の屋鋪跡有、北向な右柱二本有、長一丈、一本を折たり。
村上天皇の御宇に、藤原千方、正二位を聊望しに其無甲斐成ければ、是を逆心して日吉の神輿を取奉、三国ケ嶽にとり籠。千方に従処の山法師、山注記、三河坊、兵庫竪者、筑紫坊、此四人彼に従。此法師が力、大木を倒、勢、巖石を破。故に官軍多く討て既に引退ベき処に射手の大将紀朝雄、六根清浄の中臣祓を誦し、神功ならびなかりしにや、千方、終に柳下に縊果にき。其所を逆柳と申て、唯今、東條が宅地うらと覚たり。伊勢甲和郷にも遺跡あるなり。藤原千峯と言者の子にて鎮守府将軍に至る。(以上准后記)
〔『伊水温故』伊賀郡三国ケ嶽「准后記」〕
ii. 旧記に云。千方に四鬼従ふが故に屈せず、しかる処に河内の大領紀納言を勅使として発向し一首の御製を箭に附て敵陣に射込む。四鬼、是を見るに「土も木も我大公の国なるに何所か鬼の栖成覧」との御詠歌なり。四鬼、勅歌を見、真に吾国にはあらじとて忽ち化生の像となり、大地を踏み破て奈羅具の下に墜ち没すると云ふ。其跡とて今に有地に穴あり、風気を通ふこと歴然也。千方、四鬼に棄てられ三国ヶ嶽を逃げ去り、勢州家城の瀬戸が淵にて殺され、紀朝雄、頸を捕て帰洛すと云ふ。大圓圖號守府将軍千方、左衛門尉千常二男、俵藤太秀郷の孫也。
旧記に云、千方三国ケ嶽を落ける時、柳の鞭を以て誓けるは我空果なば遺跡として栄繁ベしと逆木にして梢を地に刺込けるとなり。依之枝逆垂たり、今に有。(兵書曰竹根鞭は不用柳鞭可也)
〔『伊水温故』伊賀郡三国ケ嶽「旧記」〕
iii. 世に云ふ、火鬼、水鬼、土鬼、隠形鬼の四人鬼と云ふ者は、先注の法師等が術也。火鬼は身より火を出て敵陣を焼、水鬼は大水を湛て郡敵を防、土鬼は須臾に大山を目前になして敵を迷、隠形鬼は己が形を隠す。是皆四人の法師が所業の術なりと云ふ。
血首が淵とて一里西の方に有。是は四人の法師等が変術して諸民を害し、此谷に捨、依之水の色赤く血の如し。石は人の首に似たり。依之血首が淵と云。干魃には郷人、此川を濁に雨気起と云。
(5)『書画五拾三駅』
天智天皇の御宇に當り、藤原の千方と云者、王道に反して朝敵となる。千方、常に妖術を施して四ツの鬼を仕ふ。所謂金鬼、水鬼、火鬼、隠形鬼等あり。是が為に官軍も征す事能はず。帝、紀友雄に勅して討しむ。友雄、賊軍に望で「草も木も我がおほきみの国なれば、いづくか鬼の住家なるベき」と詠ぜしかば、邪は正に勝ず、終に誅に伏しぬとかや。
〔『書画五拾三駅』近江 土山 千方之邪法〕
(6)『小宰記』
藤原千方、村上天皇の御宇、正二位を仰望せしに其の甲斐なくて、日吉の神輿を取り奉りて、当国(伊賀)霧生の峯ヘ籠居。紀友雄と云ふ人、副将軍となりて之を討つ。陪従の法師四人、山注記(坊の誤か)、三河坊、兵庫竪者、筑紫坊と云ふ者の力は大木を倒し、勢ひは岩石を破る。故に、官軍多く討れて負くヘかりしを、六根清浄又中臣祓を誦し、神功ならひなかりしにや、終に千方、柳の下にくひり果にき。その所を倒柳と申して、唯今、東條か宅地と覚えたり。伊勢甲和郷にも遺跡あるなり。藤原千峯と云ふ者の子にて、鎮守府将軍に至る。
〔『三重県史料 第2巻 上古・中古編』藤原千方の乱「小宰記」〕
(7)『日本名勝地誌』
藤原千方古戦場 矢持村大字霧生に在り、旧記に云ふ、村上天皇の御宇、藤原千方、正二位たらんことを望みて志を得ず。日吉の神輿を取りて奔り、当国の霧生郷ヘ籠居す。朝廷、紀朝雄に命じて之を討す時に、筑紫坊と云ふ者あり。怪力ありて勢ひ当りがたく、官軍、利あらず。朝雄、乃ち六根清浄或は中臣祓を誦し、漸く勝ちを奏すること得たり。千方、遂に柳樹の下に縊死す。此処を倒柳と称す。今は此地は里民の宅地となれり。又千方の基は此村の天照寺境内に在り碑面に数字を刻せるも摩滅して読み易からず。
〔『日本名勝地誌 第3編 東海道之部 下』伊賀国(伊賀郡)「藤原千方古戦場」〕
(8)『謡曲拾葉集』
村上天皇の御宇、藤原千方、正二位を望しに其甲斐なかりければ、是を逆心し日吉の神輿を取奉り、彼山〔三国ケ嶽のこと:筆者注〕に取籠る。千方にしたがふ山法師、山の注記、三河坊、兵庫竪者、筑紫坊、此四人かれにしたがふ。此法師等が力、大木をたおし、勢ひ巖名をやぶる。ゆヘに官軍多くうたれて已に引しりぞくベき所に射手の大将紀友雄、六根清浄の中臣祓を誦し、神功ならびなかりしか、其千方、きく共せず。然る所に、河内国の領主岡田氏、紀納言を勅使として一首の歌あそばして三国が嶽にはせ向て矢箭に取りつけ敵陣に射たりしかば、四人の悪徒、是を見るに(火鬼、水鬼、土鬼、隠形鬼と云たるはこれか)「土も木もわが大君の国なるにいづくか鬼のすみかなるらん」との御詠歌なり。悪徒、これをみ、さては我国にはあらじといひて忽ち化生の形と成て、大地をふみ破てならくの下に入けりと云ふ。其の跡、此の山に歴然たり。かの凶悪等に見捨られ、千方は三国嶽を逃さり、勢州家城の里、瀬戸が淵の傍にして討死す。紀友雄、首を取て都に帰るとぞ云々。(下略)
〔『謡曲拾葉集』田村〕
(9)『古今和歌集序聞書』
天智天皇の御時、藤原の千方将軍と云ふ人あり。是の人、伊賀伊勢の両国を吾が儘にして王に不随。仍て時の将軍を指し遣して之を責れども不叶。かの千方、四人の鬼を仕ふ敵也。所謂、風鬼、水鬼、金鬼、一鬼也。風鬼は風と成て敵の陣を吹破る。金鬼は身を金にして矢も刀も不立。水鬼は水と成て敵を流し失ふ。一鬼は数千騎の前に立て勢を立てかくす。各如此、徳あり。然る間、責る事、不及力。是時、紀朝雄中納言を大将として千方を責れども叶はず。朝雄の思ヘらく、鬼神は極て心直なる者也。されば千方が梟悪を誠として王命をそむけり。されば真心をしらせんと思て一首の歌を読て鬼の中ヘ遣す。土も木も吾大君の国なればいづくか鬼の宿と定めん。其時、鬼、千方の梟悪を悟て捨去りぬ。その時、千方、金淵の城に追ひ篭て討ち畢ぬ。是、鬼の歌に愛る証拠也。
〔『古今和歌集序聞書』 上〕
(10)『古今仰恋』
師云、是は天智天皇の御宇に千方と云ふ逆臣、伊賀伊勢の国を押領し、王命に不随。其時、軍勢を度々つかはさるれとも、かつ事を不得。かの千方、四鬼を手勢に持り。金鬼、水鬼、風鬼、隠形鬼也。金鬼は、其の身、金の盾なつて矢も伐も見に立たず。水鬼は、敵をよせて後、水となりて軍勢を損す。風鬼は大風となりて、敵の陣屋を吹破る。隠形鬼、萬騎の前に立たれば、味方の勢かくれて思ふように押よする。されば勝負をえずして、一首を読て千方が城ヘおくる。土も木もの哥也。其時、四鬼、此の哥を感得して、千方は無道の熊かなと詮議して、千方が本を立去り、又其後、千方は亡びし也と。
〔『古今仰恋』 一〕
(11)「現在千方」
ワキ詞「そもそも是は天智天皇の臣下、紀の友雄とは吾が事なり。ここに藤原の千方といヘる逆臣あり。風鬼火鬼水鬼隠形鬼とて、四色の悪鬼を従ヘつつ、王位を掠め国を乱す。万民の煩ひなるに依て、急ぎ追伐仕れと、それがし宣旨を蒙りて候。いかに誰かある。
供 「御前に候。
ワキ 「逆臣千方がありさまを委しく聞きてあるか。
供 「さん候、かの千方と申すは、無量無辺の通力を得、殊に四性の鬼神を従ヘ、天地を掠め国を侵す。凡人の身を以ては、安々と従ヘ申さん事、覚束なく存じ候。
ワキ 「汝が申すもさる事なれども、もとより我が朝は神国といひ、君の宣旨を帯しぬれば、是非に勝負を遂ぐベきなり。さて、かの四性の鬼神の事。
供 「風鬼は風を起しつつ、黒塵、人の目をくらます。
ワキ 「水鬼は水を自在にし、雨を降らせ浪を立て。
供 「天地を返す術を得たり。
ワキ 「火鬼は火の雨、猛煙を立て。
地 「隠形鬼はもとよりも、隠形鬼はもとよりも、隠るる術を身に享けて、霧や霞に変じて、人の心をたぶらかす。四道の通力自在にて、神変はいざ知らず、人間の身として、討ち得ん事は不定なり。されども我が国は、神代の昔より、すなおなるみことのり。大和の国と名づけては、大きに和らぐと訓ませつつ、人の心も直ければ、悪鬼いづくに住むベきや。ただ疑ふな人こころ。
ワキ 「土も木も皆我が君の国なれば。
地 「鬼神や猛に思ふとも、神の誓ひは晨明の、月の光のいさぎよく、影暗からぬ日の本の、直なる法に引く弓の、やがて逆臣は亡び失せ、民、安全に栄ゆベし。
ワキ詞「さらば此の歌を持て、千方が方ヘ行き、四性の悪鬼に見せ候ヘ。
供 「畏て候。天晴、是は大事の御使を承り候ふものかなまづかう急ぎ候ふベし。
(中略)
供詞 「いかに陣中ヘ案内申し候。
シテ 「案内とはいかなる者ぞ。
供 「是は右大将紀の友雄が方より申すベき子細ありて、何某の士官が参りて候。(シカジカ)
シテ 「やあ面々は此の歌の心を存じ寄りてあるか。
鬼 「何々見れば、土も木も。
シテ 「我が大君の国なれば。
二人 「いづくか鬼の栖なるらん。
地 「いづくか鬼の栖ぞや。実に道理なり。土も木も、我が君の国なれば、障礙をなさじとや。天七地五のみことのり。天つ日嗣の絶えせずも、伝はり靡く日の本の、おろそかなり我々が、望みを懸けし事よとて。一首の和歌の徳により、四色の鬼神、座を立ちて、千方を見捨て雲を踏み、虚空に翔り失せにけり。実に目に見えぬ鬼神、猛き心も和らぎて国すなおなる功は、大和歌の力なれ、力なれ。(中入)
後ワキ・立衆「寄せ懸けて、吹くや嵐の音高く、梢もさわぐ気色かな。
ワキ 「そもそも是は、天智天皇の勅を受け、友雄ただいま向ひたり。逆臣とくとく退散せよ。
シテ 「千方はこれを聞くよりも。
地 「千方はこれを聞くよりも、あら物々しや何程の事あらん、いで物見せんとて、鉾ひつさげ、あたりを拂つて出でたる形、陽疫神も、面を向くベき様は無し。(太鼓アリ) 寄せ手のつわもの是を見て、寄せ手のつわもの是を見て、我討ち取らん、討ち取らんと。切先を並ベ寄せくる浪の、打ちあふ刃の光は秋の野の、尾花が末の、乱るる有様と覚えたり。
シテ 「さしもに勇む寄せ手の勢も。
地 「千方が威勢にかけ立てられて、暫く後陣ヘ引きにけり。(働あり)
ワキ 「友雄は是を見るよりも。
地 「友雄は是を見るよりも、いでいでそれがし千方と組んで、勝負をつけんと、夕日にかがやく剣をかざし、走りかかつて、二打三打はあふよと見えしが、むんづと組んで、大地にかつぱと倒れふしやなぎ。よれつもつれつ二ころび三ころび、鎧の袖を打ち重ね、鎧の袖を打ち重ね、多くの軍兵、落ち重なりて、千方を生捕り、悦びの鬨を揚げ、さざめき帰るやさざ浪の、志賀の都ヘ帰洛をなすこそめでたけれ。
〔謡曲「現在千方」〕
草も木も我が大君の国なれば、いづくか鬼の栖なるベき(『太平記』など)
土も木も我が大君の国なれば、いづくか鬼の栖なるらん(謡曲「現在千方」など)
土も木も我が大君の国なるに、いづくか鬼の栖なるらん(『伊水温故』など)
土も木も我が大君の国なれば、いづくか鬼の宿と定めん(謡曲「羅生門」など)
土も木も我が大君の国なれば、いづくか鬼の宿りなるらん(謡曲「大江山」)
土も木も我が大君の国なれば、いづくか鬼の宿りなる(謡曲「土蜘蛛」)
(12)『広益俗説弁』
俗説云、天智天皇の御宇に、藤原千方といふ者、叛逆す。かの千方、金鬼、風鬼、水鬼、隠形鬼といふ四鬼をつかふ。千方、彼等を従ヘて、伊賀伊勢を押領す。爰に紀朝雄といふもの宣旨をかうぶり、かの地にくだり、一首の歌をよみて鬼の中におくりける。其うたに、草も木もわが大君の国なればいづくか鬼のすみかなるベき。四鬼、此うたを見て、我等、悪逆無道の臣にしたがひて、善政有道の君をそむき奉ること、天罰のがるる所なしとてにげうせければ、千方いきほひを失ひて朝雄にうたるるといふ。
今按ずるに、此説、旧事記、古事記、日本紀及び諸実録に見えず。殊に藤原の姓は、大織冠鎌足公より始る。姓氏録に、天智八年に、始めて大織冠鎌足賜藤原姓とあり。藤原系図に千方といふ者見えず。其妄説明なり。ある人云く、此説は古今の序に、和歌を論じて、ちからをも入れずして天地をうごかし、目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせとあるにもとづき、跡かたなき事を書きたりとなん。(一説に千方は、俵藤太秀郷が子とす、非なり。秀郷が子は于方なり、千方にあらず。)
〔『広益俗説弁』藤原千方が説〕
(13)『伊勢名勝志』
千方の事、太平記に載す。曰く、天智天皇の時、藤原の千方、金鬼、風鬼、水鬼、隠形鬼を駆使し、伊賀、伊勢を押領し、為めに王化に従ふものなし。因て紀朝雄、宣旨を奉じて下り討つ。朝雄、一首の歌を詠じ鬼に与えて曰く「草も木もわが大君の国なればいづくか鬼のすみかなるベき」と。鬼、之を見て遁れ去り、千方、遂に殺さると。又、伊賀記(北畠親房卿著とす偽書なり)に云う、藤原千方、正二位を望み之を得ず、遂に叛す。紀朝雄、勅を奉て之れを撃つ。千方、大に敗れ自縊て死す。伊勢田和郷に遺址ありと。
按ずるに、藤原姓は天智天皇八年始めて鎌足に賜ふ所にして、大系図千方の名なし。又、此事正史実録一も見る所なしに書の謬伝信ずるに足らず。聊、茲に附記す。
〔『伊勢名勝志』一志郡 城砦及宅址「藤原千方城址」〕
(14)『勢陽五鈴遺響』
相伝云、天智天皇朝に藤原千方将軍、王命に叛き伊賀伊勢の二州に横行す。其居地、伊賀州高尾村の乾にあり。峯を捗りて本州一志郡庄内の郷に到て城畳を設営し、謀略を以て四鬼を従ひ逆意あり。紀朝臣友雄、勅を奉じて追討使に補せられ、本州に下向して千方を謀り出し、家城の瀬戸淵に射殺せり。其首雲津川を慕ひ、遡りて飛行す。深追して二十余町にして得たり。
(中略)
藤原姓は天智天皇八年始て大織冠鎌足に賜ひて、大系図に其時に藤原千方と称すなし。
(中略)
伊賀記に所謂の村上天皇の朝に従ふベし。蓋大系図を徴て俵藤太秀郷の孫千方と例する。村上帝は天暦の朝なり。秀郷は後冷泉天皇康平年中の人なり。百十年余後にして其孫の天暦中に存世すベき理なし。是も鹵莽なり。村上帝朝に千方と称す叛臣のありたるは知ず。大系図に所載は于方にして千方に非ず。于行、同訓なり。其余千方四鬼の説は国史及実録に所見なし。
(中略)
遺事に拠って金鬼風鬼水鬼隠形鬼の名を設けて妄作する処なるベし。或云、古今集序に和哥の徳を賞して「ちからをもいれずして天地をうごかし、目に見えぬおにかみもあはれとおもはせ」と紀氏の所録に同じ。ここに拠って上古より妄譚を設くもの多し。
〔『勢陽五鈴遺響 七』一志郡 巻之二「藤原千方窟」〕