『太平記』「日本朝敵事」の藤原千方のエピソードと、その類話の比較


序章 はじめに
第1章 藤原千方と四鬼
第2章 歌の力と紀氏
第3章 天智天皇と藤原氏
終章 おわりに


【序】はじめに

 藤原千方とは、天智天皇に反逆した伝説上の人物である。
 室町時代に成立した『太平記』は、藤原千方について以下のエピソードを伝えている。

 天智天皇の御宇に、藤原千方と云ふ者有て、金鬼、風鬼、水鬼、隠形鬼と云ふ、四の鬼を使ヘり。金鬼は其身堅固にして、矢を射るに立ず。風鬼は大風を吹せて、敵城を吹破る。水鬼は洪水を流して、敵を陸地に溺す。隠形鬼は其形を隠して、俄に敵を拉。如斯の神変、凡夫の智力を以て可防非ざれば、伊賀、伊勢の両国、是が為に妨られて、王化に従ふ者なし。爰に紀朝雄と云ける者、宣旨を蒙て、彼国に下り、一首の歌を読て、鬼の中ヘぞ送ける。草も木も我が大君の国なればいづくか鬼の栖なるベき。四の鬼、此の歌を見て「さては我等、悪逆無道の臣に随て、善政有徳の君を背き奉りける事、天罰遁るる処無りけり」とて、忽に四方に去て失にければ、千方勢ひを失て軈て朝雄に討れにけり。
〔『太平記』巻十六「日本朝敵事」〕

 天智天皇に反逆した千方は、超自然的な能力を持つ4人の鬼を従えていた。
 金鬼は体が硬く、矢を射っても通じない。
 風鬼は大風を吹かせて、城砦を破壊する。
 水鬼は洪水を起こして、兵士を溺れさせる。
 隠形鬼は姿を消して、とつぜん兵士の手足をからめとる。
 この四鬼がいるおかげで、千方が支配する伊賀伊勢の両国には天皇の統治が及ばず、朝廷軍も手出しできずにいた。そこで紀朝雄に勅命が下され、朝雄は「草も木も我が大君の国なればいづくか鬼のすみかなるベき」と和歌を詠んで、四鬼のもとに送った。歌を目にした鬼はたちまち逃げ去り、千方も抵抗する力を失って、朝雄に討伐されたのだった。

 冒頭で「伝説上の人物」と説明した藤原千方だが、じつは、実在の同名人物がいる。藤原氏秀郷流の藤原千方である。
 この藤原千方は、藤原千常の子であり、藤原秀郷の孫にあたる∗1。千方は、父や祖父と同じく鎮守府将軍を務めた。しかし天皇に反逆したという史実は見当たらず∗2、伊賀伊勢で反乱が起こったことは正史に見えない∗3。千方の生没年は不詳だが、祖父の秀郷は940年に平将門を討伐しており、はるか昔の672年に崩御した天智天皇とは時代が異なる。
 歴史上の藤原千方は、天智天皇に反逆した千方とは別人と考えられる。

 「千方のエピソード」は様々な類話があるが、多くの場合は、登場する4人の鬼が入れ替わっている。本稿では、これら類話を比較することで、物語に登場する人物の実像について考察する。
 なお、引用文は判読性を高めるために、適宜、漢字の旧字体を新字体に置き換え、カギ括弧や句読点といった記号を加えるなどした。

1. 『尊卑分脈』は千方を千常の子とするー方で、「実者千常舎弟云々」と、千方を千常の子ではなく弟だとする異説も併記している。
2. 志田, 1941, p.22
3. 青山町, 1979, p.137


【1】藤原千方と四鬼

 (1)『本朝神社考』
 世に伝ふ千方は天智帝の叛臣なり。千方、四鬼を使役す。所謂金鬼、風鬼、水鬼、隠形鬼なり。伊賀伊勢の間に在りて王命に順はず。是に於いて紀友雄に勅して千方を討たしむ。友雄乃ち往いて和歌を詠じて之を送る(草も木も、我が大君の、国なれば、いづくか鬼の、すみかなるベき。)諸鬼、之を読んで感じて散じ去る。千方、勢ひを失つて、友雄、終に之を討滅す。
〔『本朝神社考』千方〕

 おおむね『太平記』と同じ内容だが、藤原千方のことは氏を省略して「千方」、紀朝雄のことは「紀友雄」と表記している。
 千方については「ーに藤原千方と曰ふ」、「案ずるに千方が事未だ詳ならず」と註釈している。歴史上の藤原千方と天智天皇の時代が合わないことを踏まえて「千方のことは詳細が分からない」と説明し、実在した藤原千方と区別するために、本文では氏を省略して「千方」と表記したものと推測できる。
 また『本朝神社考』(改造文庫)では、「千方は太平記、謡曲田村に有名である」と註釈されている。∗1

 (2)「田村」
シテ詞「いかに鬼神もたしかに聞け。昔もさるためしあり。千方といひし逆臣に仕ヘし鬼も。王位をそむく天罰にて、千方を捨つれば忽ち亡びうせしぞかし。
〔謡曲「田村」〕

 「謡曲」とは能の脚本のことであり、文学作品としての側面を強調した呼称である。
 『本朝神社考』(改造文庫)で「千方は謡曲田村に有名である」と言及されていた「田村」だが、実際に千方が登場するのは、ほんのー節である。
 「田村」の大筋は、坂上田村麻呂の霊が、清水寺を訪れた僧に、清水寺の縁起と田村麻呂の鬼神討伐について語って聞かせるというものである。終盤、田村麻呂は、鈴鹿山の鬼神と対決する場面で、千方の率いた四鬼が討ち滅ぼされた故事に言及して、鈴鹿山の鬼神も同じように滅びると宣言する。

 (3)『神明鏡』
 天智の御宇には藤原千方と云ふ者、四鬼を仕て防ぎしか共、紀友尾が「草も木も我大君の国なれば、いづくか鬼の栖成ベき」と読しかば、鬼去て千方亡ぬ。
〔『神明鏡 下』第九十五「後醍醐院」〕

 四鬼の内訳は分からない。
 紀朝雄は「紀友尾」と表記している。

 (4)『伊水温故』
 i. 三国ケ嶽
 千方将軍籠居の地なり。谷は北南二十五間、東西八間の屋鋪跡有、北向な右柱二本有、長一丈、一本を折たり。
 村上天皇の御宇に、藤原千方、正二位を聊望しに其無甲斐成ければ、是を逆心して日吉の神輿を取奉、三国ケ嶽にとり籠。千方に従処の山法師、山注記、三河坊、兵庫竪者、筑紫坊、此四人彼に従。此法師が力、大木を倒、勢、巖石を破。故に官軍多く討て既に引退ベき処に射手の大将紀朝雄、六根清浄の中臣祓を誦し、神功ならびなかりしにや、千方、終に柳下に縊果にき。其所を逆柳と申て、唯今、東條が宅地うらと覚たり。伊勢甲和郷にも遺跡あるなり。藤原千峯と言者の子にて鎮守府将軍に至る。(以上准后記)
〔『伊水温故』伊賀郡三国ケ嶽「准后記」〕

 『伊水温故』が『准后記』から引用したとして掲載しているエピソードである。
 千方が率いる4人の鬼が、山注記、三河坊、兵庫竪者、筑紫坊という4人の山法師に入れ替わっているのが特徴である。
 朝雄は和歌を詠むのではなく、祝詞を唱えることで四鬼を退けている。
 千方が反逆する動機については「正二位を望んだのにそれが叶わなかったことを逆恨みした」と明確にしている。ちなみに正二位は左右大臣に相当し、かなりの高位である。
 時代設定については、『太平記』では天智天皇の治世(668年即位~672年崩御)とされていたが、こちらでは村上天皇の治世(946年即位~967年崩御)とされている。
 また、千方は藤原千峯の子であり、のちに鎮守府将軍に任じられたとしている。
 歴史上の藤原千方は、979年に鎮守府将軍に任じられたらしいことが分かっている。しかし藤原千方が鎮守府将軍に任じられたのは、村上天皇の死後であり、微妙に時代が合わない。
 『准后記』とは、北畠親房の著作といわれる偽書『准后伊賀記』のことである。∗2

 ii. 旧記に云。千方に四鬼従ふが故に屈せず、しかる処に河内の大領紀納言を勅使として発向し一首の御製を箭に附て敵陣に射込む。四鬼、是を見るに「土も木も我大公の国なるに何所か鬼の栖成覧」との御詠歌なり。四鬼、勅歌を見、真に吾国にはあらじとて忽ち化生の像となり、大地を踏み破て奈羅具の下に墜ち没すると云ふ。其跡とて今に有地に穴あり、風気を通ふこと歴然也。千方、四鬼に棄てられ三国ヶ嶽を逃げ去り、勢州家城の瀬戸が淵にて殺され、紀朝雄、頸を捕て帰洛すと云ふ。大圓圖號守府将軍千方、左衛門尉千常二男、俵藤太秀郷の孫也。
 旧記に云、千方三国ケ嶽を落ける時、柳の鞭を以て誓けるは我空果なば遺跡として栄繁ベしと逆木にして梢を地に刺込けるとなり。依之枝逆垂たり、今に有。(兵書曰竹根鞭は不用柳鞭可也)
〔『伊水温故』伊賀郡三国ケ嶽「旧記」〕

 こちらは、『伊水温故』が「旧記」から引用したとして掲載しているエピソードである。
 四鬼の内訳は分からないが、後述する「補足」を踏まえれば、火鬼、水鬼、土鬼、隠形鬼であると推測できる。
 紀朝雄が四鬼を退けた手段は、『准后記』では祝詞だったが、「旧記」では『太平記』と同じ和歌に戻っている。鬼に送った歌については「御製」や「勅歌」という記述から、紀朝雄ではなく、朝雄を派遣した天皇自身が詠んだものだと分かる。
 紀朝雄が歌を矢に付けて敵陣に射ち込んだことと、『准后記』で「射手の大将」と呼ばれていたことから、朝雄は弓の名手らしいことが分かる。
 また、朝雄のことを「紀納言」とも別称している。
 千方については「千常の次男であり、秀郷の孫である」と註釈している。
 四鬼が逃げる様子を『太平記』は「四方に去り失せた」と描写していたが、『伊水温故』は「奈落に墜ちた」としている。

 これら『准后記』と「旧記」が伝えるエピソードについて、『伊水温故』は以下のように補足している。

 iii. 世に云ふ、火鬼、水鬼、土鬼、隠形鬼の四人鬼と云ふ者は、先注の法師等が術也。火鬼は身より火を出て敵陣を焼、水鬼は大水を湛て郡敵を防、土鬼は須臾に大山を目前になして敵を迷、隠形鬼は己が形を隠す。是皆四人の法師が所業の術なりと云ふ。
 血首が淵とて一里西の方に有。是は四人の法師等が変術して諸民を害し、此谷に捨、依之水の色赤く血の如し。石は人の首に似たり。依之血首が淵と云。干魃には郷人、此川を濁に雨気起と云。

 ここでの四鬼の内訳は、火鬼、水鬼、土鬼、隠形鬼となっている。火鬼は、身体から火炎を表出させて敵陣を焼き、土鬼は、須臾(ー瞬のあいだ)に、敵の眼前に大山を出現させて道を迷わせる能力を持つ。『太平記』と比較すると、金鬼と風鬼が、それぞれ火鬼と土鬼に入れ替わっている。
 また、4人の鬼の正体は『准后記』で言及された4人の山法師の「術」であるとしている∗3∗4。山法師はいわゆる半僧半俗の山伏であり、修験道の開祖である役小角のように不思議な術を使ったと考えられたと想像できる∗5。また、四鬼は今でいう忍者であり∗6、四鬼の術は伊賀の忍術の祖型である∗7とする考え方もある。

 (5)『書画五拾三駅』
 天智天皇の御宇に當り、藤原の千方と云者、王道に反して朝敵となる。千方、常に妖術を施して四ツの鬼を仕ふ。所謂金鬼、水鬼、火鬼、隠形鬼等あり。是が為に官軍も征す事能はず。帝、紀友雄に勅して討しむ。友雄、賊軍に望で「草も木も我がおほきみの国なれば、いづくか鬼の住家なるベき」と詠ぜしかば、邪は正に勝ず、終に誅に伏しぬとかや。
〔『書画五拾三駅』近江 土山 千方之邪法〕

 こちらは文書の類ではなく、歌川芳虎による浮世絵に書き添えられた文章から引用した。
 金鬼、水鬼、火鬼、隠形鬼が登場する。『太平記』と比較すると、風鬼が火鬼と入れ替わっている。「隠形鬼等あり」と書かれているのは、土鬼などが登場する異説を踏まえた記述と考えられる。
 紀朝雄は「紀友雄」と表記している。

 (6)『小宰記』
 藤原千方、村上天皇の御宇、正二位を仰望せしに其の甲斐なくて、日吉の神輿を取り奉りて、当国(伊賀)霧生の峯ヘ籠居。紀友雄と云ふ人、副将軍となりて之を討つ。陪従の法師四人、山注記(坊の誤か)、三河坊、兵庫竪者、筑紫坊と云ふ者の力は大木を倒し、勢ひは岩石を破る。故に、官軍多く討れて負くヘかりしを、六根清浄又中臣祓を誦し、神功ならひなかりしにや、終に千方、柳の下にくひり果にき。その所を倒柳と申して、唯今、東條か宅地と覚えたり。伊勢甲和郷にも遺跡あるなり。藤原千峯と云ふ者の子にて、鎮守府将軍に至る。
〔『三重県史料 第2巻 上古・中古編』藤原千方の乱「小宰記」〕

 『伊水温故』が紹介する『准后記』と、ほぼ同じ内容である。

 (7)『日本名勝地誌』
 藤原千方古戦場 矢持村大字霧生に在り、旧記に云ふ、村上天皇の御宇、藤原千方、正二位たらんことを望みて志を得ず。日吉の神輿を取りて奔り、当国の霧生郷ヘ籠居す。朝廷、紀朝雄に命じて之を討す時に、筑紫坊と云ふ者あり。怪力ありて勢ひ当りがたく、官軍、利あらず。朝雄、乃ち六根清浄或は中臣祓を誦し、漸く勝ちを奏すること得たり。千方、遂に柳樹の下に縊死す。此処を倒柳と称す。今は此地は里民の宅地となれり。又千方の基は此村の天照寺境内に在り碑面に数字を刻せるも摩滅して読み易からず。
〔『日本名勝地誌 第3編 東海道之部 下』伊賀国(伊賀郡)「藤原千方古戦場」〕

 『准后記』や『小宰記』とほぼ同じ内容だが、千方が従えていた4人の山法師が、筑紫坊ひとりに減っている。

 (8)『謡曲拾葉集』
 村上天皇の御宇、藤原千方、正二位を望しに其甲斐なかりければ、是を逆心し日吉の神輿を取奉り、彼山〔三国ケ嶽のこと: 筆者註〕に取籠る。千方にしたがふ山法師、山の注記、三河坊、兵庫竪者、筑紫坊、此四人かれにしたがふ。此法師等が力、大木をたおし、勢ひ巖名をやぶる。ゆヘに官軍多くうたれて已に引しりぞくベき所に射手の大将紀友雄、六根清浄の中臣祓を誦し、神功ならびなかりしか、其千方、きく共せず。然る所に、河内国の領主岡田氏、紀納言を勅使として一首の歌あそばして三国が嶽にはせ向て矢箭に取りつけ敵陣に射たりしかば、四人の悪徒、是を見るに(火鬼、水鬼、土鬼、隠形鬼と云たるはこれか)「土も木もわが大君の国なるにいづくか鬼のすみかなるらん」との御詠歌なり。悪徒、これをみ、さては我国にはあらじといひて忽ち化生の形と成て、大地をふみ破てならくの下に入けりと云ふ。其の跡、此の山に歴然たり。かの凶悪等に見捨られ、千方は三国嶽を逃さり、勢州家城の里、瀬戸が淵の傍にして討死す。紀友雄、首を取て都に帰るとぞ云々。(下略)
〔『謡曲拾葉集』田村〕

 エピソードの内容は、『伊水温故』が紹介する『准后記』と「旧記」を繋ぎ合わせているように見える。四鬼の内訳については『准后記』と同じく4人の山法師としているが、「旧記」の火鬼、水鬼、土鬼、隠形鬼についても言及している。
 紀朝雄は「紀友雄」と表記している。
 特徴的なのは、千方を討伐するために紀朝雄を派遣するのが、天皇ではなく、河内国の領主岡田氏ということである。和歌を詠んだのが岡田氏なのか朝雄なのか判然としないが、朝雄が詠んだものと考えられる。∗8
 エピソードでは、はじめ紀朝雄は祝詞を唱えて千方を討とうとするが効果が無く、次に歌を詠んで四鬼を退散させることに成功する。祝詞を唱えたあとに歌を詠むという二段構えの物語構成も、他の文献には無い特徴である。
 なお、朝雄の歌について『謡曲拾葉集』は「北條家の本に、いづくか鬼の宿と定めんと有」と註釈している。このことから、朝雄の歌は、いくつかのバリエーションがあったことが分かる∗9

 (9)『古今和歌集序聞書』
 天智天皇の御時、藤原の千方将軍と云ふ人あり。是の人、伊賀伊勢の両国を吾が儘にして王に不随。仍て時の将軍を指し遣して之を責れども不叶。かの千方、四人の鬼を仕ふ敵也。所謂、風鬼、水鬼、金鬼、一鬼也。風鬼は風と成て敵の陣を吹破る。金鬼は身を金にして矢も刀も不立。水鬼は水と成て敵を流し失ふ。一鬼は数千騎の前に立て勢を立てかくす。各如此、徳あり。然る間、責る事、不及力。是時、紀朝雄中納言を大将として千方を責れども叶はず。朝雄の思ヘらく、鬼神は極て心直なる者也。されば千方が梟悪を誠として王命をそむけり。されば真心をしらせんと思て一首の歌を読て鬼の中ヘ遣す。土も木も吾大君の国なればいづくか鬼の宿と定めん。其時、鬼、千方の梟悪を悟て捨去りぬ。その時、千方、金淵の城に追ひ篭て討ち畢ぬ。是、鬼の歌に愛る証拠也。
〔『古今和歌集序聞書』 上〕

 風鬼、水鬼、金鬼に加えて、ー鬼が登場する珍しいパターンである。ー鬼の「勢いを立て隠す」という能力は、隠形鬼の「形を隠す」という能力に似ている。どちらも、自身または味方の姿形を隠して敵から見えないようにし、奇襲につなげる能力である。
 朝雄は「鬼神は心が極めて素直なものである」と考え∗10、千方が凶悪な人物であると、四鬼に知らせようとする。四鬼が朝雄の和歌を見ることで千方の凶悪性を悟り、千方を裏切ったことについては、「鬼が歌を愛でる証拠である」と説明している。

 (10)『古今仰恋』
 師云、是は天智天皇の御宇に千方と云ふ逆臣、伊賀伊勢の国を押領し、王命に不随。其時、軍勢を度々つかはさるれとも、かつ事を不得。かの千方、四鬼を手勢に持り。金鬼、水鬼、風鬼、隠形鬼也。金鬼は、其の身、金の盾なつて矢も伐も見に立たず。水鬼は、敵をよせて後、水となりて軍勢を損す。風鬼は大風となりて、敵の陣屋を吹破る。隠形鬼、萬騎の前に立たれば、味方の勢かくれて思ふように押よする。されば勝負をえずして、一首を読て千方が城ヘおくる。土も木もの哥也。其時、四鬼、此の哥を感得して、千方は無道の熊かなと詮議して、千方が本を立去り、又其後、千方は亡びし也と。
〔『古今仰恋』 一〕

 四鬼の内訳は『太平記』と同じである。ただし隠形鬼の能力については「萬騎の前に立たれば、味方の勢い隠れて思うように押しよせる」と書かれ、『古今和歌集序聞書』のー鬼の「勢いを立て隠す」に似ている。
 紀朝雄ヘの言及が無く、歌を誰が詠んだのかも分からない、珍しいパターン。

 (11)「現在千方」
ワキ詞「そもそも是は天智天皇の臣下、紀の友雄とは吾が事なり。ここに藤原の千方といヘる逆臣あり。風鬼火鬼水鬼隠形鬼とて、四色の悪鬼を従ヘつつ、王位を掠め国を乱す。万民の煩ひなるに依て、急ぎ追伐仕れと、それがし宣旨を蒙りて候。いかに誰かある。
供  「御前に候。
ワキ 「逆臣千方がありさまを委しく聞きてあるか。
供  「さん候、かの千方と申すは、無量無辺の通力を得、殊に四性の鬼神を従ヘ、天地を掠め国を侵す。凡人の身を以ては、安々と従ヘ申さん事、覚束なく存じ候。
ワキ 「汝が申すもさる事なれども、もとより我が朝は神国といひ、君の宣旨を帯しぬれば、是非に勝負を遂ぐベきなり。さて、かの四性の鬼神の事。
供  「風鬼は風を起しつつ、黒塵、人の目をくらます。
ワキ 「水鬼は水を自在にし、雨を降らせ浪を立て。
供  「天地を返す術を得たり。
ワキ 「火鬼は火の雨、猛煙を立て。
地  「隠形鬼はもとよりも、隠形鬼はもとよりも、隠るる術を身に享けて、霧や霞に変じて、人の心をたぶらかす。四道の通力自在にて、神変はいざ知らず、人間の身として、討ち得ん事は不定なり。されども我が国は、神代の昔より、すなおなるみことのり。大和の国と名づけては、大きに和らぐと訓ませつつ、人の心も直ければ、悪鬼いづくに住むベきや。ただ疑ふな人こころ。
ワキ 「土も木も皆我が君の国なれば。
地  「鬼神や猛に思ふとも、神の誓ひは晨明の、月の光のいさぎよく、影暗からぬ日の本の、直なる法に引く弓の、やがて逆臣は亡び失せ、民、安全に栄ゆベし。
ワキ詞「さらば此の歌を持て、千方が方ヘ行き、四性の悪鬼に見せ候ヘ。
供  「畏て候。天晴、是は大事の御使を承り候ふものかなまづかう急ぎ候ふベし。
 (中略)
供詞 「いかに陣中ヘ案内申し候。
シテ 「案内とはいかなる者ぞ。
供  「是は右大将紀の友雄が方より申すベき子細ありて、何某の士官が参りて候。(シカジカ)
シテ 「やあ面々は此の歌の心を存じ寄りてあるか。
鬼  「何々見れば、土も木も。
シテ 「我が大君の国なれば。
二人 「いづくか鬼の栖なるらん。
地  「いづくか鬼の栖ぞや。実に道理なり。土も木も、我が君の国なれば、障礙をなさじとや。天七地五のみことのり。天つ日嗣の絶えせずも、伝はり靡く日の本の、おろそかなり我々が、望みを懸けし事よとて。一首の和歌の徳により、四色の鬼神、座を立ちて、千方を見捨て雲を踏み、虚空に翔り失せにけり。実に目に見えぬ鬼神、猛き心も和らぎて国すなおなる功は、大和歌の力なれ、力なれ。(中入)
後ワキ・立衆「寄せ懸けて、吹くや嵐の音高く、梢もさわぐ気色かな。
ワキ 「そもそも是は、天智天皇の勅を受け、友雄ただいま向ひたり。逆臣とくとく退散せよ。
シテ 「千方はこれを聞くよりも。
地  「千方はこれを聞くよりも、あら物々しや何程の事あらん、いで物見せんとて、鉾ひつさげ、あたりを拂つて出でたる形、陽疫神も、面を向くベき様は無し。(太鼓アリ) 寄せ手のつわもの是を見て、寄せ手のつわもの是を見て、我討ち取らん、討ち取らんと。切先を並ベ寄せくる浪の、打ちあふ刃の光は秋の野の、尾花が末の、乱るる有様と覚えたり。
シテ 「さしもに勇む寄せ手の勢も。
地  「千方が威勢にかけ立てられて、暫く後陣ヘ引きにけり。(働あり)
ワキ 「友雄は是を見るよりも。
地  「友雄は是を見るよりも、いでいでそれがし千方と組んで、勝負をつけんと、夕日にかがやく剣をかざし、走りかかつて、二打三打はあふよと見えしが、むんづと組んで、大地にかつぱと倒れふしやなぎ。よれつもつれつ二ころび三ころび、鎧の袖を打ち重ね、鎧の袖を打ち重ね、多くの軍兵、落ち重なりて、千方を生捕り、悦びの鬨を揚げ、さざめき帰るやさざ浪の、志賀の都ヘ帰洛をなすこそめでたけれ。
〔謡曲「現在千方」〕

 四鬼の内訳は風鬼、水鬼、火鬼、隠形鬼であり、他の文献のいずれとも異なる組み合わせである。隠形鬼については、ただ姿を隠すのではなく、霧や霞に変じると、能力に微妙な変化が見られる。
 四鬼が逃げる様子について『太平記』は「四方に去り失せた」、『伊水温故』は「奈落に墜ちた」と描写していたが、「現在千方」は「空ヘ翔け失せた」と描写している。
 また、四鬼が逃げ去ったあとも千方は抵抗する姿勢を見せ、いちどは官軍を押し戻し、最後は朝雄とのー騎打ちにまでもつれ込む。
 紀朝雄は「紀友雄」と表記し、役職は「右大将」としている
 『古今和歌集序聞書』と同じく、ワキや供の台詞が、歌が鬼の心を動かす力を持っていることを示唆している。さらに「目に見えぬ鬼神、猛き心も和らぎて国すなおなる功は、大和歌の力なれ」と、歌が持つ力を強調している。

1. 林羅山, 1942, p.279
2. 久保田, 1976, p.183
3. この「術」については、金鬼は刀剣を扱う技術、火鬼は放火、風鬼は風を利用する戦術、隠形鬼は忍術という具合に置き換えることができる。
4. 小野, 1906, p.79
5. 小山, 1963, pp.25-26
6. 青山町, 1979, p.138
7. 荒俣, 2021, p.71
8. 志田, 1941, p.23
9. 参考として、以下のとおり類歌を列挙する。なお、歌ごとの異同を比較しやすいように文体を整え、同音の漢字は表記を統ーした。

草も木も我が大君の国なれば、いづくか鬼の栖なるベき(『太平記』など)
土も木も我が大君の国なれば、いづくか鬼の栖なるらん(謡曲「現在千方」など)
土も木も我が大君の国なるに、いづくか鬼の栖なるらん(『伊水温故』など)
土も木も我が大君の国なれば、いづくか鬼の宿と定めん(謡曲「羅生門」など)
土も木も我が大君の国なれば、いづくか鬼の宿りなるらん(謡曲「大江山」)
土も木も我が大君の国なれば、いづくか鬼の宿りなる(謡曲「土蜘蛛」)

10. 謡曲「大江山」では、頼光たちに騙し討ちをされた酒吞童子が「鬼神に横道なきものを」と恨みごとを言う。横道とは「人の道にそむくこと、卑怯なふるまいをすること」といった意味であり、「鬼神は心が素直なものである」という観念は、広く知られていたと推測できる。


【2】歌の力と紀氏

 『古今和歌集序聞書』と「現在千方」は和歌について「鬼の歌に愛でる証拠なり」、「目に見えぬ鬼神、猛き心も和らぎて国すなおなる功は、大和歌の力なれ」と記述し、四鬼を退けた歌の力を強調していた。『本朝神社考』と『古今仰恋』も「歌を読んで感じて散じ去る」、「この歌を感得して」と、朝雄の歌を読んだ四鬼が心を動かされた様子が描写されている。
 歌ではなく祝詞で鬼を退けていた『准后記』や『小宰記』とは対照的であり、他の文献も、歌の力をここまで強調していない。
 歌に超自然的な力を見出す思想は、平安時代に成立した『古今和歌集』にも見られる。
 『古今和歌集』仮名序には「力をも入れずして、天地を動かし、目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ、をとこをむなの中をもやはらげ、猛きもののふの心をも、なぐさむるは歌なり」と書かれている。同じく真名序でも「動天地、感鬼神、化人倫、和夫婦、莫宜於和歌(天地を動かし、鬼神を感ぜしめ、人倫を化し、夫婦を和すは、和歌より宜しきはなし)」と書かれている。

  このように『古今和歌集序聞書』と「現在千方」で歌の力が強調されているのを見ると、そもそも千方を討伐する紀朝雄が「紀氏」であることに、重要な意味づけがされていると考えられそうである。
 紀氏は武内宿禰を祖とする氏族である。紀氏は、905年に成立した『古今和歌集』の選者である紀貫之を始め、優れた歌人を多く輩出している。貫之は、先述した仮名序の作者ともいわれる。
 『伊水温故』で朝雄の別称として登場した「紀納言」は、紀長谷雄(845年~912年)の通称でもある。長谷雄もまた紀氏であり、歌が後撰和歌集に入集されるほどに優れた歌人である。長谷雄の最終官位は中納言であり、『古今和歌集序聞書』の「紀朝雄中納言」という記述とも符合する。
 しかし紀長谷雄も紀貫之も、天智天皇や村上天皇とは時代が合わない。紀朝雄あるいは紀友雄という人物も、どの系図にも見当たらず∗1、あくまで架空の人物であると考えられる。
 以上のことを踏まえると、紀氏が優れた歌人を輩出してきたことから、紀氏の朝雄をエピソードに登場させることで、和歌が鬼を退ける展開の裏付けにしようとしたと考えられる。∗2

1. 志田, 1941, p.22
2. 前掲書, p.24


【3】天智天皇と藤原氏

 和歌の力について言及した『古今和歌集序聞書』と「現在千方」の内容を踏まえて、紀朝雄が「紀氏」であることの物語上の意義について考察した。
 引き続き、藤原千方が「藤原氏」である物語上の意義を考察する。

 (1)『広益俗説弁』
 俗説云、天智天皇の御宇に、藤原千方といふ者、叛逆す。かの千方、金鬼、風鬼、水鬼、隠形鬼といふ四鬼をつかふ。千方、彼等を従ヘて、伊賀伊勢を押領す。爰に紀朝雄といふもの宣旨をかうぶり、かの地にくだり、一首の歌をよみて鬼の中におくりける。其うたに、草も木もわが大君の国なればいづくか鬼のすみかなるベき。四鬼、此うたを見て、我等、悪逆無道の臣にしたがひて、善政有道の君をそむき奉ること、天罰のがるる所なしとてにげうせければ、千方いきほひを失ひて朝雄にうたるるといふ。
 今按ずるに、此説、旧事記、古事記、日本紀及び諸実録に見えず。殊に藤原の姓は、大織冠鎌足公より始る。姓氏録に、天智八年に、始めて大織冠鎌足賜藤原姓とあり。藤原系図に千方といふ者見えず。其妄説明なり。ある人云く、此説は古今の序に、和歌を論じて、ちからをも入れずして天地をうごかし、目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせとあるにもとづき、跡かたなき事を書きたりとなん。(一説に千方は、俵藤太秀郷が子とす、非なり。秀郷が子は于方なり、千方にあらず。)
〔『広益俗説弁』藤原千方が説〕

 前段は『太平記』とほぼ同じ内容である。
 後段では「藤原姓は、鎌足が天智天皇8年に賜ったものである」と指摘し、天智天皇の時代に藤原姓の人物が反逆したというのは、妄説であると断言している。
 また、「ある人云わく」として、「千方のエピソード」は『古今和歌集』仮名序にある「力をも入れずして、天地を動かし、目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ」という記述にもとづいて創作されたフィクションであろうと推測している。

 (2)『伊勢名勝志』
 千方の事、太平記に載す。曰く、天智天皇の時、藤原の千方、金鬼、風鬼、水鬼、隠形鬼を駆使し、伊賀、伊勢を押領し、為めに王化に従ふものなし。因て紀朝雄、宣旨を奉じて下り討つ。朝雄、一首の歌を詠じ鬼に与えて曰く「草も木もわが大君の国なればいづくか鬼のすみかなるベき」と。鬼、之を見て遁れ去り、千方、遂に殺さると。又、伊賀記(北畠親房卿著とす偽書なり)に云う、藤原千方、正二位を望み之を得ず、遂に叛す。紀朝雄、勅を奉て之れを撃つ。千方、大に敗れ自縊て死す。伊勢田和郷に遺址ありと。
 按ずるに、藤原姓は天智天皇八年始めて鎌足に賜ふ所にして、大系図千方の名なし。又、此事正史実録一も見る所なしに書の謬伝信ずるに足らず。聊、茲に附記す。
〔『伊勢名勝志』一志郡 城砦及宅址「藤原千方城址」〕

 前段は『太平記』と『伊賀記』を抜粋したものである。『伊賀記』は偽書『准后伊賀記』のことであり∗1、前掲した『准后記』の同ー書である。
 後段では藤原千方の実在性に疑問を示している。

 (3)『勢陽五鈴遺響』
 相伝云、天智天皇朝に藤原千方将軍、王命に叛き伊賀伊勢の二州に横行す。其居地、伊賀州高尾村の乾にあり。峯を捗りて本州一志郡庄内の郷に到て城畳を設営し、謀略を以て四鬼を従ひ逆意あり。紀朝臣友雄、勅を奉じて追討使に補せられ、本州に下向して千方を謀り出し、家城の瀬戸淵に射殺せり。其首雲津川を慕ひ、遡りて飛行す。深追して二十余町にして得たり。
 (中略)
 藤原姓は天智天皇八年始て大織冠鎌足に賜ひて、大系図に其時に藤原千方と称すなし。
 (中略)
 伊賀記に所謂の村上天皇の朝に従ふベし。蓋大系図を徴て俵藤太秀郷の孫千方と例する。村上帝は天暦の朝なり。秀郷は後冷泉天皇康平年中の人なり。百十年余後にして其孫の天暦中に存世すベき理なし。是も鹵莽なり。村上帝朝に千方と称す叛臣のありたるは知ず。大系図に所載は于方にして千方に非ず。于行、同訓なり。其余千方四鬼の説は国史及実録に所見なし。
 (中略)
 遺事に拠って金鬼風鬼水鬼隠形鬼の名を設けて妄作する処なるベし。或云、古今集序に和哥の徳を賞して「ちからをもいれずして天地をうごかし、目に見えぬおにかみもあはれとおもはせ」と紀氏の所録に同じ。ここに拠って上古より妄譚を設くもの多し。
〔『勢陽五鈴遺響 七』一志郡 巻之二「藤原千方窟」〕

 藤原千方が拠点とした土地について詳細に説明しているが、四鬼を退けた方法については言及が無い。
 紀朝雄は「紀友雄」と表記している。また、朝雄は「朝臣」であり、「追討使」に任じられたとしている。
 藤原千方と天智天皇は時代が合わないこと、村上天皇のときに千方が反逆した史実が無いことを指摘している。四鬼については、国史などに記載が無いものの、歴史上で実際に起こった反逆事件を題材にして作り上げたフィクションであろうと推測している。
 加えて、古今和歌集仮名序の「力をも入れずして、天地を動かし、目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ」のー文を引用し、和歌の力を讃えるこの文章にもとづいてフィクションを創作する人物が、大昔から多数いたと説明している。

 歴史上の藤原千方は、天智天皇と時代が合わず、村上天皇のときに反逆した史実も無い。四鬼を従えて反逆した千方は、歴史上の藤原千方とは別人であり、あくまで架空の人物であると考えられる。
 やや突飛ではあるが、歴史上の藤原千方の祖父が秀郷であり、秀郷が平将門を討伐したことから、将門や平氏に同情し藤原氏に反感を抱いた人物が、藤原氏の千方が天皇に反逆して討伐されるというエピソードを創作した可能性も考えられる。∗2
 また、天智天皇は大化の改新を断行して各氏族の私有地を没収したことから、各氏族の反感を買ったであろうことも想像できる。そうして反発した氏族の代弁者として千方が位置づけられ、千方が天皇に反逆する物語が創作された可能性も考えられる。∗3

1. 久保田, 1976, p.179
2. 志田, 1941, p.23
3. 小野, 1906, pp.78-79


【結】おわりに

 今回、『太平記』が伝える藤原千方と四鬼のエピソードと、他の文献に記載された類話を比較した。
 結果、藤原千方については、歴史上の同名人物がいるものの別人であり、あくまで架空の人物であると考えられることが分かった。紀朝雄についても、紀氏の系図に名前が見当たらないことから、こちらも、あくまで架空の人物であると考えられることが分かった。
 そのー方で、「千方のエピソード」は藤原氏に反感を抱く人物によって「藤原氏の千方が天皇に反逆して、討伐される物語」として創作された可能性があることが分かった。また、和歌に鬼の心を動かす力があると信じる思想を背景として、紀氏が優れた歌人を輩出した氏族であることから「紀氏の朝雄が和歌を詠んで、鬼を心変わりさせる物語」として創作された可能性があることが分かった。
 さらに四鬼についても、和歌の超自然的な力を裏付けて強調するため紀氏の朝雄がエピソードに登場したように、和歌の力をおそれて逃げ去る役どころとして登場したとも考えられそうである。


2022.6.12(最終履歴、2023.4.20加筆)


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参考文献
・青山町史編纂委員会『青山町史』(青山町, 1979)
・荒俣宏、應矢泰紀『アラマタヒロシの日本全国妖怪マップ』(秀和システム, 2021)
・井沢蟠竜『広益俗説弁』(国民文庫刊行会, 1912)
・歌川芳虎(孟斎芳虎)「書画五拾三駅 近江土山千方之邪法」(書画五十三次, 1872)
・小野茂吉 編『三重県史料(2) 上古・中古編』(三重県史料保存会, 1906)
・菊岡如幻『伊水温故』(伊賀史談会, 1933)
・窪田空穂 編『校註古今和歌集』(東京武蔵野書院, 1938)
・久保田収「伊賀国の地誌について」(皇学館大学紀要 第14輯, 1976.1)
・小山竜太郎『これが忍術だ!』(久保書店, 1963)
・近藤瓶城 編『続史籍集覧 23: 秀郷流藤原氏諸家系図 上』〔結城系図〕(近藤活版所, 1894)
・近藤瓶城 編『改定史籍集覧 第2冊』〔神明鏡〕(近藤出版部, 1906)
・佐佐木信綱 校『新謡曲百番』(博文館, 1912)
・志田義秀『日本の伝説と童話』(大東出版社, 1941)
・永井一孝 校『太平記 上』(有朋堂書店, 1927)
・能基『古今和歌集序聞書』(写本, 1282)〔新日本古典籍総合データベース, 古今和歌集序聞書, 9~10コマ, https://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100018262/viewer/1〕(2022.6.12)
・野崎城雄『日本名勝地誌 第3編 東海道之部下』(博文館, 1894)
・野村八良 校『謡曲集 下』(有朋堂書店, 1926)
・芳賀矢一 訂『謡曲二百番 中、下巻』(金港堂, 1908)
・林羅山(林道春) 著, 宮地直一 校註『本朝神社考』 (改造社, 1942)
・藤原公定 撰『新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集(5)』(吉川弘文館, 1903)
・宮内黙蔵『伊勢名勝志』(川島文化堂, 1889)
・望月長孝『古今仰恋』(國友喜一郎, 1937)〔新日本古典籍総合データベース, 古今仰戀, 25コマ, https://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/200000039/viewer/1〕(2022.6.12)
・本居豊頴 校『国文註釈全書. 第3編』〔謡曲拾葉集〕(皇学書院, 1913)
・安岡親毅『勢陽五鈴遺響 七』(鈴木嘉兵衛, 1883)