安倍晴明といえば、映画や小説、漫画やアニメでも題材として取り上げられる、伝説的な陰陽師である。晴明の活躍を伝える逸話は多く、鎌倉時代に編纂された『古今著聞集』は「陰陽師晴明、早瓜に毒気あるを占ふ事」というエピソードを伝えている。
話はこうである。
御堂関白殿御物忌に、解脱寺僧正観修、陰陽師晴明、醫師忠明、武士義家朝臣参籠して侍けるに、五月一日南都より早瓜を奉たりけるに「御物忌の中に取入られん事いかがあるベき」とて、晴明にうらなはせられければ、晴明うらなひて、一の瓜に毒気さぶらふよしを申て、一をとり出したり。「加持せられば毒気あらはれ侍ベし」と申ければ、僧正に仰て加持せらるるに、しばし念誦の間に其のうりはたらきうごきけり。其時忠明に毒気治すベきよし仰られければ、瓜を取まはし取まはし見て、二所に針をたてけり、其後瓜はたらかず成にけり。義家に仰て瓜をわらせられければ、腰刀をぬきてわりたれば、中に小蛇わだかまりて有けり。針は蛇の左右の眼に立たりけり。義家何となく中をわると見ヘつれども、蛇の頭を切たりけり。名をえたる人々のふるまひかくのごとし、ゆゆしかりける事也。この事いづれの日記にみえたりといふ事をしらねども、あまねく申伝ヘて侍り。
〔『古今著聞集』巻第七「術道」第九〕
藤原道長が物忌をしていたとき、勧修、安倍晴明、丹波忠明、源義家がいっしょに邸内にこもっていた。5月1日に奈良から早瓜が献上されたが、晴明が占うと、瓜のひとつに毒気があるという。晴明がひとつの瓜を取り上げて「加持すれば毒気が現われる」と言ったので、勧修が加持すると、晴明の取り上げた瓜がひとりでに動きだした。忠明が瓜に針を刺すと動きが止まり、義家が腰刀で瓜を斬り割ると、瓜の中から、両目に針が刺さり首を切り落とされた小蛇が出た。これがエピソードの概要である。
藤原道長は平安時代を代表する公卿であり、要職を歴任して藤原氏に繁栄をもたらした。
勧修は道長から絶大な信頼を置かれた僧侶で、彼の法力が道長の昇進を助けたという。
丹波忠明は高名な医師であり、権鍼博士、医博士、典薬頭などを歴任し、侍医も務めた。
源義家は源氏を代表する武人のひとりで弓の名手として知られ、八幡太郎と別称される。
「早瓜のエピソード」は、公卿の代表者に迫っていた害毒の災いを、陰陽師、仏僧、医師、武士それぞれの代表者が力を結集させて退けた、ヒーロー譚なのである。
しかし、ここでひとつ疑問が湧く。
エピソードの登場人物の生没年を見比ベると、時代が微妙に合わない、または時代がまったく合わない人物が、混ざり込んでいるのである。
最年長である晴明(921~1005年)を目安にすると、晴明が死んだ1005年には、道長(966~1028年)は39歳、勧修(945~1008年)は60歳であり、この3人は時代が合う。
ー方、忠明(990~没年不明)は、1005年当時はわずか15歳である。道長の前で晴明や勧修と並んで術比ベをするには、あまりに若すぎるように思える。
義家(1039~1106年)に至っては、生まれてすらいない。∗1
このエピソードを語り継いできた人々は、筆者と同じ疑問を抱かなかったのだろうか。
記録が豊富で情報ヘのアクセスも容易な現代と比ベて、むかしは官人武人の生没年を正確に把握することが難しかったであろうことは、容易に想像がつく。しかしそれでも、忠明はともかく、義家は明らかに時代が合わないことは分かっていたのではないか。物語に登場させるなら、義家よりも、たとえば同じ源氏で道長に仕えていた頼光の方がふさわしいのではないか。そう発想する人が現われても、おかしくないのではないか。
このように思い、いくつかの文献を読み比ベるうちに、筆者と同じ疑問を抱いた先人がいたことが分かった。同時に、このエピソードが様々に形を変えて伝わってきたことも知れたので、まとめて論述する。∗2
なお、勧修については『古今著聞集』などでは「観修」、その他の文献では「勤修」あるいは単に「修」と表記されていることがある。とくに断りが無い限り、すベて「勧修」と読み替えながら考察していく。
また、引用文は判読性を高めるために、適宜、漢字の旧字体を新字体に置き換え、カギ括弧や句読点といった記号を加えるなどした。
1. 『古今著聞集』(『国史大系』)は、「義家」の2字に傍点を付したうえで「義家、一ィ本旁書曰時代不審也」と註釈している。実際、複数の写本が義家について「時代不審也」と註釈しており、義家では時代が合わないことを示唆している。
2. おもに「早瓜のエピソード」の登場人物の比較を行なった本稿に対して、類似のテーマを扱った論文に、菅原(2020)の「『大蛇・小蛇』の教材研究に関する考察: 『陰陽師晴明、早瓜に毒気あるを占ふ事』」がある。先行研究として重要な手掛かりになったことを、ここに付記する。
「早瓜のエピソード」について、『古今著聞集』は「陰陽師晴明、早瓜に毒気あるを占ふ事」という話を伝えているが、類似の話を伝えている文献は数多い。
今回の考察で扱う文献は、15種である。以下に、書名、編著者名、成立年または出版年を列記した。
『古今著聞集』(橘成季、1254年)
『撰集抄』(作者不明、13世紀半ば)
『元亨釈書』(虎関師錬、1322年)
『寺門伝記補録』(志晃、1394~1428年)
『本朝神社考』(林羅山(1583生~1657没)、成立年不明)
『諸国百物語』(作者不明、1677年)
『本朝蒙求』(菅亨、1679年)
『本朝高僧伝』(卍元師蛮、1702年)
『本朝語園』(孤山居士、1706年)
『観音冥応集』(蓮体、1706年)
『大和名所図会』(秋里舜福 著、竹原信繁 画、1791年)
『扶桑蒙求』(岸鳳質、1843年)
『大日本史』(源光圀、1851年)∗1
『皇国名医伝』(浅田惟常、1852年)
「大ヘび小ヘび」(片山廣子、1953年)
ここから、各文献に記載されている「早瓜のエピソード」の類話と、『古今著聞集』の内容とを簡単に比較していく。
(1)『撰集抄』
しかのみならず、一条院の御位のとき、大和より瓜をまいらせて侍けるに、雅忠と云醫師のおりふし御前にさぶらひけるが、「此瓜の中に、その一つには大なる毒を含めり。くいなんものはやがてうすベし」と申。此よし御門に奏し奉るに、「不思義のことなり。晴明申旨やある。彼をめせ」とて、晴明と云陰陽師をめされて、「此瓜の中にいかなる事かある。うらない申せ」と仰下さるるに、晴明程なく「大なる霊気あり」と奏すれば、「さらば行尊に祈らせよ」とてめされて、神呪にて祈給に、やや時もかヘず、おほくの瓜の中に、大なる瓜一、板敷より二三尺計をどりあがること度々にて、はては中より二にわれて、一尺あまりなる蛇一すぢはひ出て、則死にけり。いとふしぎにぞ侍る。上古もかかることをきかず、末代にもあるベしとも覚侍らぬ事に侍り。雅忠、晴明、行尊、時の面目、ゆゆしくぞ侍りける。今、世の下りて、かかる目出人々もをはせるこそ、世を背ける身なれども、かなしくおぼえて侍れ。
〔『撰集抄』巻第八 第九「行尊僧正笙岩屋ノ歌事」〕
(2)『元亨釈書』
術家白藤府言、某日家内有恠。至期相国閉門謝客、晡時有叩者。問之対曰、和州之瓜使也。開門納之。于時修在座、大史安晴明、大毉重雅預焉。相国、顧安大史曰、家裏有斎祓不知此瓜可嘗不。晴明曰、瓜中有毒不可輙啖也。相国、語修、許多瓜子何為毒乎。修誦咒加持、忽一瓜宛転騰躍。一座驚恠。重雅乃袖出一針針瓜、其動便止。割見、中有毒蛇、針中其眼。蓋術家之言是也。都下嘆三子之精其術矣。
〔『元亨釈書』巻第四 慧解二之三「園城寺勧修」〕
(3)『寺門伝記補録』
或時、術家告藤府言、某日家内有怪。此日、藤公閉門斎居。晡時有叩者。開門問之、従和州献瓜使也。時修在座、大夫安倍晴明、大醫重雅亦預焉。藤公顧安氏曰、今家有斎祓、不知此瓜可嘗不。晴明曰、瓜中有毒、不可輙啖也。公謂修曰、数顆瓜子何為毒乎。修誦呪加持、一瓜騰躍宛転出於器外。一座怪見。時重雅袖中出一針針之、瓜動乃止。割見、中有毒蛇、針中其眼。蓋術家之言是也。都鄙伝之、嘆三子之精其術矣。
〔『寺門伝記補録』巻十三「法務前大僧正観修 解脱寺」〕
(4)『本朝神社考』
術家、藤原道長に白して言く、其の日家内に怪あらん。期に至つて相国門を閉ぢて客を謝す。晡時に叩く者あり、之を問ふ。対ヘて曰く、和州の瓜使なりと。門を開いて之を納る。時に大史安ノ晴明、大醫重雅、僧勧修、座に在り。相国、安倍大史を顧みて曰く、家裡に斎祓あり、知らず此の瓜嘗むベきやいなや。晴明曰く、瓜中に毒あり、輙く啖ふベからずと。相国、修に語つて曰く、許多の瓜子何をか毒とせんや。修呪を誦して加持す。忽ちに一瓜宛転じて騰躍す。一座驚怪す。重雅乃ち袖より一針を出し、瓜に針す。其の動便ち止む。割りて中を見るに毒蛇あり、針其の眼に中る。蓋し術家の言是れなり。都下三子の其の術に精しきことを嘆す。
〔『本朝神社考』下巻「安倍晴明」〕
(5)『諸国百物語』
長徳年中の相国ふぢはらの道長の御まヘに、ゑい山の僧欽朱と安倍清明と醫師のしげまさと、三人同座してゐられけるが、菓子に瓜のいでけるを清明見て「此うりの内に毒あるうりあり」と、うらなふ。道長、きこし召し「さらば、このかずのうりに、いづれが毒あらんと、かぢし給ヘ」と仰せられければ、欽朱、うりにむかつて印をむすび、かぢし給ヘば、たちまちひとつのうりをとりいでければ、重正、ふところより針をとり出だし、うりをさしければ、此うり、うごきやみぬ。道長、此うりをわりて見られければ、そのなかに蛇一すぢありしが、蛇のまなこに針あたりて死してゐたり。三人ともに、その術につうじけるとて道長はなはだかんじ給ひけると也。
〔『諸国百物語』巻之三 第九「道長の御前にて三人の術くらベの事」〕
(6)『本朝蒙求』
藤原相府道長公、嘗執柄時。術家白藤府言、某日家内有妖怪。至期晡時有叩門者。問之対曰、和州瓜使也。開門納之。太史安晴明、大毉重雅等在傍。相国、顧安太史曰、家裡有瓜、汝可嘗不。晴明曰、瓜中有毒、不可輙啖也。重雅乃袖出一針針瓜、其動便止。割見、其中有毒蛇。針中其眼云。
〔『本朝蒙求』巻之上 三十四「重雅鍼瓜」〕
(7)『本朝高僧伝』
一日術者告藤府曰、某日家内有怪、可深慎焉。至期相国閉門謝客。晡時、自和州籠甜瓜来、開門納之。豈修在座、太史安倍晴明、大醫重雅陪侍。相国乃薦之諸彦。謂安氏我亦可嘗否。安氏曰、此瓜中有毒、不可輙啖也。相国、謂修曰、幾許顆瓜執為有毒邪。修乃誦咒加持、俄一瓜騰躍宛転。一座驚怪。重雅懐中出針剳瓜、騰躍便止。華而視之、中有毒蛇、針貫其眼。都下歎三子之術矣。
〔『本朝高僧伝』巻第四十九「江州園城寺沙門勧修伝」〕
(8)『本朝語園』
晴明、一日藤原道長公ニ申テ曰ク「其ノ日家内ニ怪アラン。御物忌アルベシ」ト。相国、其ノ日ニ至ツテ門ヲ閉物イミシ給フ。暮ニ及ビテ門ヲ叩ク者アリ。是ヲ問フニ、対ヘテ曰ク「和州ヨリノ瓜ノ使ヒナリ」ト。則チ門ヲ開テ納ル。時ニ晴明、大醫重雅、僧勤修其ノ座ニアリ。相国、晴明ニ向ツテ宣ハク「家内斎ス。コノ瓜ヲ食ラフベキヤ否ヤ」晴明申テ云ク「瓜ノ中カニ毒アリ。容易啖フベカラズ」ト。相国、勤修ニ謂リテ曰ク「許多ノ瓜子イツレニカ毒アランヤ」ト。修スナハチ呪ヲ誦シテ加持ス。タチマチニ一ツノ瓜宛転シ騰躍ス。一座ヲドロキアヤシム。重雅乃シ袖ヨリ一針ヲ出シテ瓜ニ刺スニ、タチマチ動キ止ミケリ。割リテ中チヲ見ルニ毒虵アリ、針ソノ眼ニ中ル。都下三子ノ其ノ術ニ精シキ事ヲ嘆ジケリ。
〔『本朝語園』巻第七「三子之精術」〕
(9)『観音冥応集』
或時、博士白シケルハ「五月朔日殿内ニ怪異アラン。斎シ玉ヘ」ト。期ニ至テ相国門ヲ閉テ客ニ逢玉ハズ。時ニ僧正勧修、大史安倍晴明、大醫重雅(著聞集ニハ忠明トアリ)、武将八幡太郎義家伺候シ玉ヘリ。晡方ニ門ヲ叩ク者アリ。問ヘバ和州ヨリ瓜ヲ献ズルナリケレバ、門ヲ開テ納ル。時ニ相国、晴明ニ問ヒ玉ハク「今日斎ス。此瓜嘗ベンヤ」晴明曰ク「瓜ノ中ニ毒アリ。輙ク啖フベカラズ」ト。相国、勧修ニ語リ玉ハク「若干ノ瓜、何カ毒アリヤ」僧正暫ク加持シ玉ヘバ忽ニ一ノ瓜アリ宛転騰躍リケバ、一座驚歎セズト云コトナシ。重雅乃チ袖ヨリ針ヲ取出シテ瓜ヲ刺スニ、其ノ動キ便チ止ム。時ニ八幡太郎、大刀ヲ抜イテ瓜ヲ割テ見玉フニ、中ニ毒蛇アリ。重雅ガ針、蛇ノ眼ヲ刺シ串キヌ。義家ノ大刀ハ自然ト其ノ頭ヲ切リ落トシ玉フ。博士モ能ク占ヒシガ、四人ノ藝術何カ劣リタルコトヲ知ラズト、諸人驚キテ称美セリトカヤ。釈書ニハ義家ノ事ナシ。著聞集ニハ「義家、瓜ヲ割ク」トアリ。然レドモ道長公ノ時ハ義家未ダ生レ玉ハズ、恐ラクハ源頼信カ又ハ頼光ナラン。然ラバ著聞集ハ謬マリナレドモ、源氏ノ武将誰カ、コレホド奇特ナカラン。頼信頼光ハ酒顛童子ヲ退治シ、義家ハ後冷泉院ノ御悩ノ時、弦ヲ鳴ラシテ妖怪ヲ降伏シ玉フナレバ、著聞集ニ載セタルモ尤モナレドモ、時代相違ナレバ釈書ニハ除ケリ。
〔『観音冥応集』巻六 第十八「勧修僧正ノ事」〕
(10)『大和名所図会』
摂関太政大臣道長公は、大織冠十二代後胤、兼家公の家督、上東門院の御父なり。(中略)あるとき安倍の晴明伺候して、いついつの日御館にあやしき事侍るベし、御つつしみありて然るベきよしを申し上ぐる。殿下何事にやと気づかわしくおもひ給ひ、件の日に成りて早朝よりあまたの人を召し寄せられける。日中に至つて南都より早瓜まゐらせけり。晴明末座にありしが、すすみ出で「奇事と申すは此瓜なり、たやすく食し給ふベからず」といふ。道長公、おほくの中に此物にかぎりてあやしみあるベしとはこころえがたきよしを宣ふ。勤修僧正上座に居ながら、数珠をすり咒を唱ヘらるれば、瓜たちまちに踊りまはる。大醫重雅一針をもつて瓜にさす。則ちはたらかず。頼光末席より出でて、太刀を抜き二つに切りはなす。瓜の中に小蛇ありしが、切りころされぬ。殿下大に感じ給ひ、晴明はかねて前兆をさとし、勤修は仏力をもつて其の実否を糺さる。重雅神醫なれば眼を刺すゆゑ動かせず、頼光武勇の長人なればかりそめに切るにも首にあたる。是みな自然の妙なりとて、おのおの禄賜はりけるとなり。
〔『大和名所図会』巻四「名産白甜瓜」〕
(11)『扶桑蒙求』
藤原相府道長公、嘗執柄時。術家白藤府言、某日家内有妖怪。至期晡時有叩門者。即和州瓜使也。太史安倍晴明、大醫重雅等在傍。相国顧安太史曰、有瓜、汝可嘗不。晴明曰、瓜中有毒、不可輙啖也。重雅袖出一鍼鍼瓜、其動便止。割見、其中有毒蛇。鍼中其眼云。
〔『扶桑蒙求』上巻「晴明占瓜」〕
(12)『大日本史』
長徳中、有術士。告左大臣藤原道長曰、某日家當有怪。至期道長杜門謝客、唯招鎮守府将軍源頼光、醫師丹波忠明(按頼光本書作義家、忠明元亨釈書作重雅、並誤矣)、僧正勧修及び晴明。會大和献瓜、道長疑而不食。晴明曰、瓜中有毒。勧修唱咒、其瓜跳躍円転不止。忠明以針刺之、瓜乃不動。頼光挺刀斫之、中有小蛇。針中其眼、刀断其頭。(古今著聞集)
〔『大日本史』巻之二百二十六「列伝」第百五十三「方技」〕
(13)『皇国名医伝』
長徳中、安倍晴明謂藤原道長曰、某日府中當有恠異、謹而避之。至期道長杜門謝客、獨延源頼光、晴明、忠明、又僧勧修、自守。是日大和国献瓜、道長意疑而未輙食。晴明為卜之曰、瓜中有毒。於是観修唱咒、瓜跳転不止。忠明鍼之、乃止。頼光以刀断之、内有小蛇。鍼中其目、刀中其頭。道長大喜、厚加贈貽。
〔『皇国名医伝』前篇 巻中「丹波氏」〕
(14)「大ヘび小ヘび」
人間がだんだん殖えて世の中が賑やかになると、歴史のおもてに蛇はでなくなつたやうだ。藤原の道長が栄華の絶頂にゐた時分のこと、大和の国から御機嫌伺ひとしてみごとな瓜をささげて来た。夏のゆふ方で、道長は「ほう、うまさうな瓜だな!」とその進物の籠をながめてゐた。そのとき御前に安倍晴明と源頼光が出仕してゐたが、安倍晴明は眉をひそめて「殿、ただいまこのお座敷には妖気が満ちてをります。この籠の瓜が怪しく思はれます」と眼に見るやうに言つた。すると頼光がいきなり刀を抜いてその瓜を真二つに切つた。瓜の中に小さい蛇が輪を巻いてかくれてゐた。
〔『灯火節』大ヘび小ヘび〕
1. 『大日本人名辞書』と『東洋画題綜覧』にも「早瓜のエピソード」が記載されているが、どちらも『大日本史』の内容を読み下し、あるいは現代語訳したものである。内容にほとんど差異が無いため、本稿では扱わなかった。
2. なお、正徳2年(1712年)に成立した『和漢三才図会』の「巻七十一 近江」では、『元亨釈書」を引用しつつ、騒動が起こった時期について「永延元年」と附記している。永延(987~989年)は、長徳の3つ前の元号であり、10年ほどのズレがある。
前段で、各文献の異同についてかいつまんで説明した。
文献を読み比ベて目につくのは、登場人物の入れ替わりが激しいことである。
・『古今著聞集』は道長、晴明、勧修、忠明、義家の5名が登場する。成立年がもっとも古く、知名度もあるのでエピソードの雛型と考えられるが、じつは、この登場人物の組み合わせは『古今著聞集』にしか見られない。
・『撰集抄』はー条天皇、晴明、行尊、雅忠の4名が登場するが、義家のポジションが欠けている。ー条天皇が登場するのは『撰集抄』だけである。
・『元亨釈書』、『寺門伝記補録』、『本朝神社考』、『諸国百物語』、『本朝高僧伝』、『本朝語園』は道長、晴明、勧修、重雅の4名が登場する。義家のポジションは欠けたままである。
・『本朝蒙求』と『扶桑蒙求』は道長、晴明、重雅の3名のみが登場する。義家だけでなく、勧修のポジションも欠けている。
・『観音冥応集』は道長、晴明、重雅に加えて、勧修と義家が再登場する。
・『大和名所図会』は道長、晴明、勧修、重雅、頼光の5名が登場する。
・『大日本史』と『皇国名医伝』は道長、晴明、勧修、忠明、頼光の5名が登場する。
・「大ヘび小ヘび」は道長、晴明、頼光の3名のみが登場する。
以上のことをまとめたのが、下の表である。
表1 「陰陽師晴明、早瓜に毒気あるを占ふ事」の類話に登場する人物の内訳
このように、同じ「早瓜のエピソード」を扱っているにも関わらず、文献によって登場人物の数や組み合わせは様々である。すベての文献に登場して皆勤を果たしているのは、安倍晴明ただひとりである。
筆者は、エピソードの登場人物として道長、晴明、勧修、重雅、頼光の5名がもっともふさわしいと考えている。
この5名は、大江匡房により1111年に成立した『続本朝往生伝』にも登場しており、ー条天皇の治世において活躍した「時の人」に名を連ね、「皆これ天下の一物なり」と讃えられている。∗1
こうしたことも踏まえて、生没年が近しい道長、晴明、勧修に並ぶのは、息子の世代にあたる忠明よりも重雅が、生まれてすらいない義家よりも頼光が、エピソードの登場人物としてよりふさわしいと考えるのである。
1. 参考として、『続本朝往生伝』の該当部分を抜粋する。なお、文中にある「上宰ニハ則左相」の「左相」とは、道長のことである。
一条天皇者円融院之子也(中略)七歳ニシテ即位、御宇二十五ノ間、叡哲欽明廣長万事、才学文章詩華過人、絲竹絃歌音曲絶倫(中略)時之得人、於斯為盛(中略)上宰ニハ則左相(中略)陰陽師ニハ則賀茂光榮、安倍晴明。有験之僧ニハ則観修(中略)醫方ニハ則丹波重雅(中略)武者ニハ則満仲、満正、維衡、致頼、頼光、皆是レ天下之一ツ物也。
〔『続本朝往生伝』「一条天皇」〕
最初に提示した疑問に立ち返ろう。
「忠明や義家では、晴明や勧修とは時代が合わないのではないか」
先人も、どうやら似たようなことを考えていたらしい。
ふたたび、『大日本史』が伝える「早瓜のエピソード」の内容を確認する。
長徳中、有術士。告左大臣藤原道長曰、某日家當有怪。至期道長杜門謝客、唯招鎮守府将軍源頼光、醫師丹波忠明(按頼光本書作義家、忠明元亨釈書作重雅、並誤矣)、僧正勧修及び晴明。會大和献瓜、道長疑而不食。晴明曰、瓜中有毒。勧修唱咒、其瓜跳躍円転不止。忠明以針刺之、瓜乃不動。頼光挺刀斫之、中有小蛇。針中其眼、刀断其頭。(古今著聞集)
江戸時代後期に成立した『大日本史』では道長、晴明、勧修、忠明、頼光が登場するが、註釈には「按頼光本書作義家、忠明元亨釈書作重雅、並誤矣」とある。「思うに、頼光は『古今著聞集』では義家と書かれ、忠明は『元亨釈書』では重雅と書かれているが、どちらも誤りであろう」と指摘している。
筆者は「早瓜のエピソード」の登場人物としては、忠明よりも『元亨釈書』に登場する重雅がふさわしいと考えているが、『大日本史』は逆に、重雅が誤りで忠明が正しいと考えているようである。どちらにしろ『大日本史』は、文献によって忠明が登場したり重雅が登場したりと、内容が異なることを踏まえている。
ー方、頼光については、エピソードの登場人物として義家よりも頼光がふさわしいという見解で、筆者と『大日本史』はー致している。
さらに『観音冥応集』の内容を再確認する。
或時、博士白シケルハ「五月朔日殿内ニ怪異アラン。斎シ玉ヘ」ト。期ニ至テ相国門ヲ閉テ客ニ逢玉ハズ。時ニ僧正勤修、大史安倍晴明、大醫重雅(著聞集ニハ忠明トアリ)、武将八幡太郎義家伺候シ玉ヘリ。晡方ニ門ヲ叩ク者アリ。問ヘバ和州ヨリ瓜ヲ献ズルナリケレバ、門ヲ開テ納ル。時ニ相国、晴明ニ問ヒ玉ハク「今日斎ス。此瓜嘗ベンヤ」晴明曰ク「瓜ノ中ニ毒アリ。輙ク啖フベカラズ」ト。相国、勤修ニ語リ玉ハク「若干ノ瓜、何カ毒アリヤ」僧正暫ク加持シ玉ヘバ忽ニ一ノ瓜アリ宛転騰躍リケバ、一座驚歎セズト云コトナシ。重雅乃チ袖ヨリ針ヲ取出シテ瓜ヲ刺スニ、其ノ動キ便チ止ム。時ニ八幡太郎、大刀ヲ抜イテ瓜ヲ割テ見玉フニ、中ニ毒蛇アリ。重雅ガ針、蛇ノ眼ヲ刺シ串キヌ。義家ノ大刀ハ自然ト其ノ頭ヲ切リ落トシ玉フ。博士モ能ク占ヒシガ、四人ノ藝術何カ劣リタルコトヲ知ラズト、諸人驚キテ称美セリトカヤ。釈書ニハ義家ノ事ナシ。著聞集ニハ「義家、瓜ヲ割ク」トアリ。然レドモ道長公ノ時ハ義家未ダ生レ玉ハズ、恐ラクハ源頼信カ又ハ頼光ナラン。然ラバ著聞集ハ謬マリナレドモ、源氏ノ武将誰カ、コレホド奇特ナカラン。頼信頼光ハ酒顛童子ヲ退治シ、義家ハ後冷泉院ノ御悩ノ時、弦ヲ鳴ラシテ妖怪ヲ降伏シ玉フナレバ、著聞集ニ載セタルモ尤モナレドモ、時代相違ナレバ釈書ニハ除ケリ。
江戸時代前期に成立した『観音冥応集』では道長、晴明、勧修、重雅、義家が登場する。
重雅については「著聞集ニハ忠明トアリ」と註釈がされ、『古今著聞集』では重雅ではなく忠明が登場すると指摘している。
義家については「釈書ニハ義家ノ事ナシ。著聞集ニハ義家瓜ヲ割クトアリ。然レドモ道長公ノ時ハ義家未ダ生レ玉ハズ、恐クハ源頼信カ又ハ頼光ナラン」と註釈がされている。『元亨釈書』には義家が登場しないこと、『古今著聞集』には義家が登場するが時代が合わないことを、あわせて指摘し、「義家とされているのは、源頼信か頼光のことだろう」と推測している。源頼信(968~1048年)は義家の祖父にあたり、異母兄である頼光とともに道長に仕えた。ちなみに頼信と道長は2歳差である。
さらに『観音冥応集』の註釈は「然ラバ著聞集ハ謬マリナレドモ、源氏ノ武将誰カ、コレホド奇特ナカラン。頼信頼光ハ酒顛童子ヲ退治シ、義家ハ後冷泉院ノ御悩ノ時、弦ヲ鳴ラシテ妖怪ヲ降伏シ玉フナレバ、著聞集ニ載セタルモ尤モナレドモ、時代相違ナレバ釈書ニハ除ケリ」と続く。かなり踏み込んだ内容といえる。『古今著聞集』は、義家と道長の時代が合わないことを承知したうえで、天皇を苦しめていた妖怪を鳴弦によって祓った逸話がある義家を、あえて登場人物のひとりに据え、逆に『元亨釈書』は時代考証を重視して義家を物語から省略したのだろう、と『観音冥応集』は推測しているのである。∗1
1. 『観音冥応集』は、義家が鳴弦によって救った天皇のことを第70代後冷泉天皇としているが、この逸話が『平家物語(4)』「鵺」に書かれているエピソードを指すなら、義家が救ったのは第73代堀河天皇である。
筆者は「早瓜のエピソード」の登場人物として、道長と晴明と勧修の時代に合うのは重雅と頼光であろうと、くりかえし述ベてきた。
この組み合わせの5人が登場するのは『大和名所図会』だけである。
もういちど読み返そう。
摂関太政大臣道長公は、大織冠十二代後胤兼家公の家督、上東門院の御父なり。(中略)あるとき安倍の晴明伺候して、いついつの日御館にあやしき事侍るベし、御つつしみありて然るベきよしを申し上ぐる。殿下何事にやと気づかわしくおもひ給ひ、件の日に成りて早朝よりあまたの人を召し寄せられける。日中に至つて南都より早瓜まゐらせけり。晴明末座にありしが、すすみ出で「奇事と申すは此瓜なり、たやすく食し給ふベからず」といふ。道長公、おほくの中に此物にかぎりてあやしみあるベしとはこころえがたきよしを宣ふ。勤修僧正上座に居ながら、数珠をすり咒を唱ヘらるれば、瓜たちまちに踊りまはる。大醫重雅一針をもつて瓜にさす。則ちはたらかず。頼光末席より出でて、太刀を抜き二つに切りはなす。瓜の中に小蛇ありしが、切りころされぬ。殿下大に感じ給ひ、晴明はかねて前兆をさとし、勤修は仏力をもつて其の実否を糺さる。重雅神醫なれば眼を刺すゆゑ動かせず、頼光武勇の長人なればかりそめに切るにも首にあたる。是みな自然の妙なりとて、おのおの禄賜はりけるとなり。
江戸時代中期に成立した『大和名所図会』と他の文献を比較して、内容の異同を挙げていく。
・道長が物忌をする理由が、晴明が行なった忠告によるとされている。これは『本朝語園』や『観音冥応集』と共通している。
・物忌は、早朝に「数多の人」を集めて始まり、日中になって早瓜が献上される。物忌を早朝から始めたり、大人数を集めるという描写は『大和名所図会』独自のものである。また、瓜が献上された時間帯についても、夕方としている他の文献と比ベて、早い印象を受ける。
・瓜の産地である奈良を「南都」と呼んでいる。これは『古今著聞集』と共通である。
・勧修は上座に、晴明と頼光は下座にいたという描写は、『大和名所図会』独自のものである。他の文献では、登場人物の席次について、ここまでくわしい描写は無い。
・毒蛇を退治した晴明たちに道長が褒美を与える描写は、『大和名所図会』以前の文献には見られない、独特なものである。
以上のように『大和名所図会』の内容は、他の文献との共通点も多いが、そのー方で非常に独自色が強い。
たとえば登場人物については、前段で扱った『観音冥応集』は、『元亨釈書』に登場する重雅と『古今著聞集』に登場する義家とを登場させ、できるだけ古い文献に沿う内容にしようと苦心しているような印象を受ける。その点、『大和名所図会』は義家のかわりに頼光を登場させており、非常に思いきり良く、大胆に再話しているように感じられる。
今回、『古今著聞集』が伝える「陰陽師晴明、早瓜に毒気あるを占ふ事」を初めとして、他の文献に記載された類似のエピソードを採集し、それぞれ比較した。∗1
結果、同じ「早瓜のエピソード」でも文献ごとの内容に差異があり、とくに登場人物の入れ替わりが激しいことが分かった。なかでも『観音冥応集』と『大日本史』は、『古今著聞集』と『元亨釈書』の内容を踏まえつつ「文献によって、忠明と重雅の入れ替わりがあること」と「義家では時代が合わず、頼光と取り違えた可能性があること」を指摘していた。さらに『観音冥応集』は、義家について「妖怪を退治した逸話を持つ武人であるから、時代が合わないことを承知しながら『古今著聞集』は義家を登場させ、時代考証を重視した『元亨釈書』は義家を物語から省略したのだろう」と、踏み込んだ推測を述ベていた。
古典の登場人物の顔ぶれを見て、現代人である筆者が抱いた「時代が合わないのではないか」という疑問について、今回の考察で、近代以前の人々も似たような疑問を抱いていたことが分かった。さらに、そうした疑問を踏まえて物語の整合性をとるために、エピソードが伝承される過程で、登場人物の入れ替えや省略が行なわれた可能性があることも分かった。
1. 本稿の公開後、『古今著聞集私記』に、術道第九について「御堂関白、見、元亨釈書、榻鴫暁筆」という記述があるのを見つけた。しかし『榻鴫暁筆』の判読が難しく、2022年6月7日時点で、筆者は当該記述を確認することができていない。
2022.5.26(最終履歴、2025.2.4加筆)