関より東の軍神、タケミカヅチとフツヌシとタケミナカタについて
関より東の軍神、タケミカヅチとフツヌシとタケミナカタについて
「フツヌシ、タケミカヅチ、タケミナカタ」とは、いずれも軍神として知られる神々の名で、古事記でも日本書紀でも、国譲りのエピソードで登場する重要な存在だ。
国譲りのエピソードは、天孫降臨の前段に当たり、太陽神アマテラスの孫に地上を支配させるために、天上と地上の神々がどのようなやりとりをしたかを描いている。
武甕槌(タケミカヅチ)は、軍神であると同時に雷神ともされ、茨城県鹿島神宮の祭神として知られている。
古事記によれば、タケミカヅチはアマテラスの要請を受けて地上世界(葦原中国)に降りてきて、地上を支配していたオオクニヌシに国譲りを迫ったという。
このとき国譲りに反対し、タケミカヅチに抵抗したのが建御名方(タケミナカタ)だった。
タケミカヅチに襲いかかったタケミナカタは返り討ちにあい、信濃国諏訪海まで追いつめられてタケミカヅチに殺されそうになるが、タケミナカタが「命を助けてくれれば、この地にとどまり、よそには行かない」と言ったので、タケミカヅチは見逃してやった。
これが長野県諏訪大社の由来とされる。
タケミナカタを負かしたタケミカヅチは、あらためてオオクニヌシに国譲りを承諾させ、天孫降臨の下準備を終えたのだった。
日本書紀が伝える国譲りの伝説は、細部が異なる。
天の主宰神であるタカミムスヒとアマテラスが地上を平定するために、まず派遣を決めたのは、経津主(フツヌシ)だった。
すると「フツヌシだけにいい格好はさせられない」と、タケミカヅチが副官として同行を申し出て、ふたりで地上に向かうことになった。
二神がオオクニヌシ(オオナムチ)に国譲りを迫ったところ、オオクニヌシは自身が地上を平定するときに用いていた広矛を、「天孫がこの矛を用いて国を治めれば、国はかならず平安になるだろう」と言って、二神に授けた。
これが、日本書紀第9段本文が伝えるエピソードで、オオクニヌシがフツヌシに託した矛は、いわば地上の支配権を象徴するものだった。
さらに紀第9段第2の一書では、国譲りを迫ってきたフツヌシとタケミカヅチに対して、オオクニヌシは「ふざけるな」と一喝する。
そこで、二神はタカミムスヒからの「天孫に地上の支配権を譲ってくだされば、オオクニヌシには神界の支配をお任せしましょう。またオオクニヌシをお祭りするために巨大な宮を立て、アマテラスの息子の一人にお祭りさせましょう」という交換条件を提示した。
そうして、やっと「そこまで言うのなら」とオオクニヌシは納得し、国譲りを承諾するのだ。
このあとフツヌシとタケミカヅチは、天上の神々に帰順しない邪神を次々と打ち倒し、地上を平定する。
無事に大任を終えたフツヌシは、その後、香取の地ヘおもむき、千葉県香取神宮で祭られることになる。
このように記紀神話では、フツヌシとタケミカヅチの軍神としての活躍が描かれている。
タケミナカタはいいところが無いが、この神は、諏訪湖に住み着いていた水神・龍神を征服した紛れもない軍神であり、それら土着の神々から水神の神格を受け継ぎ、さらに元寇のときに神風を吹かせてモンゴル軍を負かした風神でもあった。
諏訪神(タケミナカタ)を祭る神社は全国にあり、とくに鎌倉時代以降は、八幡神に並ぶ軍神として信仰を集めたらしい。
じつは諏訪信仰は平安時代にはすでに定着していたようで、「関より東の軍神、鹿島・香取・諏訪の宮」といって、鹿島(タケミカヅチ)と香取(フツヌシ)に次ぐ関東三軍神の一角として諏訪(タケミナカタ)の神名が挙げられるほどだった。
フツヌシ、タケミカヅチ、タケミナカタは、ともに日本神話を代表する軍神といえる。
もうひとり、軍神として無視できないのが、建葉槌(タケハヅチ)だ。
日本書紀第9段本文では「一に云わく」として、あるエピソードを伝えている。
オオクニヌシから矛を授けられたフツヌシとタケミカヅチは、その後、帰順しない悪神を打ち倒していくのだけど、最後まで香香背男(カガセオ)という星神が抵抗した。
カガセオは強力な天つ神でフツヌシとタケミカヅチだけでは手に負えず、倭文神(シトリガミ)であるタケハヅチが加勢して、ようやくカガセオを打ち倒すことができた。
このシトリガミ・タケハヅチは、織物の神ともされ、軍神としての位置づけはあいまいだが、ここに書き残しておく。
2015.12.23
一覧